選穴と処置について



はじめに
ゼロ位置で診るということ
経穴を表現する言葉
経穴は小宇宙
全身の問題か部分の問題か
中心概念は体幹と末端
選穴は精専を貴とする

太極療法
本治法標治法

反応が出ている経穴を使用する
特効穴治療について
穴性について
経穴に対する処置
虚実補瀉

虚実とは何か
補瀉とは何か
虚実補瀉のまとめ

まとめ




はじめに



一元流鍼灸術における選穴方法と処置について述べておきます。

『一元流鍼灸術の門』とともにここを深く修めていくと、東洋医学の研究方法が確立されます。

臓腑経絡学は、東洋医学の発想法の基礎であり、まとめとなるものです。『一元流鍼灸術の門』の中では、これまで蓄積されてきた臓腑経絡学の中で、最も臨床的な価値の高いものをまとめてあります。この臓腑経絡学を実際の臨床に即してさらに書き換えていく作業が、これからの東洋医学の研究課題であると考えています。

『一元流鍼灸術の門』全体を通して深く読まれるなら、気一元の観点から身体を観るという発想そのものが、鍼灸医学を学問として育てていく基礎であると理解されると思います。

弁証論治を通じた治療の全過程は、一から発して一に帰る、すなわち気一元の身体から発して気一元の身体に帰る過程です。臓腑経絡学はこの旅のガイドブックです。一から発して一に帰るということは筋肉の起始停止にたとえられます。そして臓腑経絡学は筋肉の本体に相当します。

この「選穴と処置について」では、弁証論治という旅の実際の歩き方、すなわち経穴の診方と処置についてご紹介します。

私は鍼灸師ですので、ここでは経穴という一点に着目して語っています。けれども、さらに大きな範囲である、面、筋肉の状況、骨格の構成などについても把握し考えていくことによって、実際の臨床の幅は大きく広がります。




ゼロ位置で診るということ



いちおうの証はすでに立ててあるわけですけれども、新たに始めての患者さんを見るような気持ちで切診を行います。

切診の結果とすでに立ててある病因病理とを引き比べて、あるいは、前回の治療の時の経穴の状況と現在のものとを引き比べて、患者さんの身体の状況を考え、治療方針を立てます。

経穴反応の変化を診るためには、少なくとも前回の経穴の状態を指で覚えておく必要があります。これには集中力と訓練が必要となります。

また、経穴状況が大きく変化しているようであれば、生活状況の変化があったかどうか、ことに喜怒哀楽の変動がなかったかどうか、肉体的精神的に強い疲労を感じることがなかったかどうか、飲食不節はなかったかどうか、気候の状態や月の満ち欠けに対応しているかどうか、風邪を引いているかいないかなどといったことを考慮に入れて、病因病理の流れとの関係を考えていきます。

心を細かく砕いて、用心深く用心深く治療しようとすると限りがありません。限りがありませんけれども、できる範囲で着実にやっていきます。自分自身の心身を安定させて毎回観察することが大切ですので、無理をしないように。けれどもたるまないよう用心しながら患者さんに向かいます。

考えてみると、一回一回の治療のたびに実は弁証論治をしているようなものです。そのためにも、気持ちを新たにして、診るということに専心することがとても重要です。




経穴を表現する言葉



経穴診においては経穴の表情を読み取ります。

読み取ったものはできるだけ具体的な言葉で表現します。

具体的な表現とは、腫れ・陥凹・緩み・深い・浅い・冷え・熱・二行・三行・すだれ・つぶれ・海溝・里・・堅い・きょろ・粘り・泥・動きの良し悪しなどです。いわば、経穴の形状がイメージできるような表現です。イメージできれば、どのような言葉でもかまいません。

伝来の経穴名は、神霊に通じるものから、具体的な山川渓谷をイメージできるものまで、非常に深く広い言語構造をもっています。このような経穴名が付されているということからも、人間は小宇宙であると古人が把えていたということがわかります。古人はそれを具体的な名前で表現し遺してくれているわけです。

ですから、その形状を現わす言葉もそれに比して恥ずかしくない、具体的な表現を用いていきたいものです。抽象的な言葉、たとえば虚実などは、経穴の具体的な状態が提示されていないため、その表現をする理由に個人差が強くなってしまいますので、具体的な経穴の表情をイメージすることができません。経穴を虚実で表現できていると思うことは、人間を男女だけで表現できると思っているようなものです。




経穴は小宇宙



経穴は小宇宙です。「生きている人間」という一段階大きな、しかしこれも小宇宙に依存してその形をさまざまに変化させる微小宇宙です。経穴を診るということは、その微小宇宙の変化を指尖で観察することです。

微小であっても宇宙ですから構造があります。経脉という流れに沿って、渦を巻いたり抵抗したり流されて崩れたり頑固に踏ん張ったりしているわけです。深さや広がり、定位置からの逃避などがあります(この場合、奇穴として名前を与えられたりします。治療していくと定位置に戻ります。)。また、その形自体にも、潰れたり、日本海溝かというほど深い溝になっていたり、一点で亀裂を負いながら冷えながら踏ん張っていたり、また逆にカッカッと熱していたりします。さらには、生命力そのものを失っているかと思うほどその表情に乏しいものもあります。

さらにまた経穴は外界との通路となりやすく、生命力が泄れ出たり、邪気の出口となっている場合もあります。

経穴診を身心一元の観点からみると、気の偏在を表現していることになります。臓腑と経絡との関係をよく考えながら、どのように気が偏在しているのかということを考えていきます。

一つの経穴には、臓腑経絡との関連、内生の邪の問題、本人の生命力の器と外邪の問題、生命力の変化の方向、外界との関連などなど、さまざまな影響を受けた結果が、そのそれぞれにおいて表現されています。

ですから、徹底して考えるならば、その一つ一つの経穴の状態について、それぞれの弁証論治が成立するとも言えます。

それら個々の経穴診をすべて統合して、一人の人間を気一元としてみたときの弁証論治を統一的に語り、その中からふたたび、経穴を選びとる作業を行う。

これが日々の臨床において、あたかも呼吸するかのように繰り返されていることです。




全身の問題か部分の問題か



これは経穴診というよりも弁証論治における課題です。

解決しようとする主訴が全身の問題なのか局所の問題なのかということをまず噛み分けます。

全身の問題でありその器が充実しているならば、臓腑の気を手足に引き出すことによって目的の経絡を活性化できますので、問題が解決されます。

全身の問題でありその器が充実していないならば、もう少し根のほう、腹部や背部から手を入れていき、じわっと問題の解決を図ることになります。

局所の問題であれば、器の問題はさておき、その痛み歪みの初発がどこで、それがどこまで到達しているのか観察し、その末端を押さえていきます。ひび割れた茶碗のひびの到達点から、それ以上ひびが広がって行かないようにボンドで止めていくような感じです。先端を押さえてやると、そこから先へは進みませんから、徐々にその患者さん本来の生命力で賦活してきます。

ただ、局所の問題の場合、その痛め方の強さによっては全身の気のアンバランスを起こしていることがあります。その場合は、それを調整すると、局所の問題も意外とすばやく治ることがあります。このようなとき、全身を一元の気としてイメージして、どのように偏っているのかを体表観察を通じて研究し、整えていくようにします。子午のバランスや経絡や奇経の上下左右のバランスをとる考え方などが奏功するところです。

全身の問題か部分の問題かということに関してさらに深く踏み込むならば、その相互関係がどれほど深いか浅いか、という課題がみえてくるでしょう。単なる外傷であっても、時間を経過していればいるほど全身の問題との関係が深くなります。捻挫でもきちんと治さなかったために、腰の問題となったり臓腑の問題となったりしてくる場合もあります。




中心概念は体幹と末端



病の深さと選穴とを一致させるように私はしています。私は、と述べている理由は、まだ研究段階の仮説であるということを意味しています。

基本となる考え方は、臓腑根幹の病のものには体幹の経穴を用い、経絡枝葉の病のものには四肢末端の経穴を用いるということです。

四肢末端の経穴の使用方法については、井栄兪経合の五兪穴によって解説されています。末端に行くほど浅く高く、合穴ほど深く中心に向かいます。

体幹では、その中心の中心は、丹田になります。丹田は表面からは触れられません。一般に使用できる表面の経穴としては、腹部では関元や気海や両太巨、背部では腎兪や命門や三焦兪がそれであると考えています。

もっとも深い部分、中心を調えるというときには、これらの経穴を用いて、丹田にアプローチし中心を定めようとします。

このようにして、弁証論治で捉えた病の深さとそれに対する処置とを合致させようとしているわけです。




選穴は精専を貴とする



一般的には気の傾きを調えることを目的とするわけですから、選穴に際しては精専を貴とします。精専といいますけれども、一穴や二穴で治療するということを必ず意味しているわけではありません。選穴に際しては、「偏らせる」ということを目標にするということです。

病体とは、生命力が偏在してバランスが崩れているものです。崩れているバランスを調整するために異なる気の傾き与える、そのために鍼灸師は鍼灸を用いるわけです。

具体的には、使用する経穴を、右手にまとめるとか、左足にまとめる、あるいは中心にまとめるなどして意識的に気の偏在を作り出し、全身の気をコントロールしようとします。

これは、生命力を分散させないということでもあります。病体には必ず偏りがあり、そこには必ず気の濃淡があります。無理をすると、大切な生命力をさらに損傷する恐れがあります。

また、上記とは別のものとしてたまに全身的な気欝が明瞭な場合もあります。その場合はその気欝を散ずるために多くの経穴を用いることもあります。その場合でも、散じた後に納めの一点を設けるようにします。







太極療法

沢田流は太極療法を提唱しています。本来の太極療法とは、全身を気一元としてみて、それを調整するということであると私は理解しています。そしてそれは、一元流鍼灸術の治療法の基本でもあります。

ところが、沢田流を自称する人々の中には、全身の生命力を向上させるとして、一定の経穴を事前に決めているグループがあります。このような、体表観察をする以前に選穴及び取穴場所を決定するという方法論は、一元流鍼灸術においては採りません。

その理由の一つは、事前に専穴を決めると、使用経穴が多くなり、偏りをつけるという小数選穴の意味が薄れること。

二つは、今ある患者さんの身体に無理なくアプローチするために、体表観察を行い、それによって選穴を決定するということを、一元流鍼灸術では基本的な方針としているということ。

そして三つ目は、今ここに生命があるということのありがたさの中に人は生きるべきであると考えているためです。

生かされていることに対する感謝を基本とするとき、人はその生命力の内側で生きることを受容することができます。それは、自分を限り、小さくして日々の生活を選択するということです。このように人生を選択すると、徐々にその器が充実していき、小さい器であってもその中で豊かに生きていくことができます。

思うに、太極療法家の事前選穴は、今ある患者さんの器の大きさにしたがうのではなく、器全体を大きく安定した形にもっていこうと試みるものです。けれども実はこれは、精神を安定させて散歩をするといった、日常生活に気をつけることによって、本人がご自身で選択するものです。

治療においてはこれは、養生法として指導すべきものであると考えています。

養生をするか否かをも含めて患者さんが選択した日常生活を前提とした上で、現在の器の傾きに対して傾きをもたせていく。それが一元流鍼灸術における治療であると考えています。







本治法標治法

また、一元流鍼灸術では、本治法・標治法について日本鍼灸の発想をとりません。

本来の標治法とは、急なればその標を取るとあるように、緊急で止むを得ない場合の処置のことをいいます。

東洋医学本来の粘り強い臓腑経絡の調整を横に置いておいても緊急に行わなければならない処置には、古くは癃閉や便秘があげられています。現代では、いわゆる救急の処置の多くがこの範疇に入ります。

鍼灸師は、気一元の身体に対してアプローチしています。治療家がもし、これは本治法の鍼、これは標治法の鍼と区別して身体にアプローチしようとしたとしても、受ける身体は一つです。身体にはそのような区別はできません。身体はそれらを、ただ雑駁な多くの鍼として受けとめているだけです。

本治法・標治法という治療の区別は、自身の治療理論をあいまいにさせてしまう可能性があるわけです。




反応が出ている経穴を使用する



反応が出ている経穴を使用するということは私が個人的に心に決めていることです。(私が、と述べている理由は、まだ研究段階の仮説であるということを意味しています。)

鍼灸医学はそもそも体表観察から出てきたものです。それを通じて、生命力の流れが見出され、それを当時の陰陽五行という宇宙論と混ぜ合わせながら、壮大な人身一小天地の論を築き上げてきました。

その初発の位置に戻ることを、一元流鍼灸術の研究方針としているため、反応が出ている経穴を使用し、反応が出ていない経穴は使用しないことにしています。

弁証論治の中には、経穴の状況もすでに含まれて考察されています。その中心を体表観察していく中から見極めて、そこに処置を施すわけです。

細かく診極めにくい反応や、変化しやすい反応は中心の矛盾ではありませんから捨てます。変化しにくいもの、大きくわかりやすい反応が、治療院で処置してもらうことを欲している経穴であると基本的には考えています。

反応を大きく出している身体と、微細な反応しか示さない身体とがあります。全身状況をみても、反応があまり出ていなくてどこに処置していいのかわからない場合は、もう一度繊細な指に戻して観察しなおします。これは体調が一段階変化してきた慢性病の患者さんによく現れる状態です。




特効穴治療について



反応が出ている経穴を用いる決意を私が個人的にしているということは前に述べました。

特効穴を使って治療を行おうとすると、経穴の状態を診ることよりも先に処置すべき経穴を決定しがちになりますので、気をつけます。

患者さんの身体はさまざまであり、その個別具体的な身体にそれぞれの症状が花咲いているわけです。ある患者さんに使用して効果があった経穴であっても、それは異なる時代異なる地域の個別の文化の中でのことです。それを現代人にあてはめておなじような効果をもたらすと考えることは乱暴だと思います。経穴反応をよく見極め、目の前の患者さんに合った経穴を使用したいと思っています。

これが基本。

特効穴をよく勉強すると、どのような病因病理のものにその経穴が効果ありそうか、ということが見えてきます。そうするとその特効穴で効果が出そうな患者さんが見えてきます。

そこで、そのような患者さんに対しては、その特効穴を、探索穴の範囲に入れます。いつものように経穴診をし、弁証論治を通じて今使用すべき経穴を決定しますが、そこに特効穴として探索穴の範囲に入れたものが入っているかどうかということは、その経穴の状態次第ということとなります。

つまり、診断部位の拡大自由化の道筋の一つとして、特効穴を考えていくわけです。




穴性について



穴性とは、いわば、支那大陸における特効穴治療を、少し引いて広げ、臓腑経絡学をなぞる形で抽象的にまとめなおしたものと言えます。穴性という一つ抽象のレベルの高いものにまとめることによって、特効穴よりも使い勝手のよいものになっています。

その使用方法は上記した特効穴と同じで、診断部位の拡大自由化の道筋のひとつとして考えます。

「常」は原穴診・背候診といった基本的な切診です。「変」として、穴性や特効穴、また場合によっては兪募郄絡その他の歌賦によるものを切診の範囲に入れていきます。このようにして、できるだけ泄れなく診察していこうとするわけです。

ただ、実際の臨床においてはかなりの時間的な余裕がなければ、ここまで診ていくことは難しく、また無駄でもあります。

ひとつひとつの経穴の表情を読み取るのにも時間が必要ですし、弁証論治との関連や治療の組立を考えるのにも時間がかかります。ですから、診察の範囲を広げるのは「常」をあたりまえにできるようになってから、ということになります。

診察の範囲を広げる際には、「気一元としての身体を診ている」という観点から外れないよう注意しなければなりません。




経穴に対する処置



これまで選穴の基本について縷々述べてきました。

それでは、このようにして選ばれた経穴に対してどのような処置をするのでしょうか。

まず考えるべきことは、どうしてそこに反応が出ているのかということです。これは、立てている弁証論治とその後の経過を勘案しながら、弁証論治を深めるように考察していきます。つまり、気一元の身体の中におけるその経穴の「形状の理由」を考えるわけです。

処置は、その経穴に対して行います。

処置方法は、経穴の状態に合せて考えます。堅いものが選択されていればそれを打ち砕き、弱っているものが選択されていればそこに気を集めるように処置をします。これが基本です。

堅い経穴の傍らには弱い経穴があることが多いものです。その弱い経穴のほうを選択すると、堅い経穴があれっと思うほど緩んでいることがよくあります。

脊中起立筋全体がこわばっている場合でも、その下の根の方に緩んだり陥凹したり亀裂が入っている経穴があるもので、その一点を選択して処置をすると、脊中起立筋全体が緩んでしまうことがよくあります。

そのような経験を繰り返しているうちに、堅い経穴を狙うことは非常に少なくなり、陥凹していたり緩んでいたりする一点を経穴と定めて狙うことのほうが私は多くなりました。

経穴は立体的な小宇宙です。その小宇宙の中心に鍼尖を置くように工夫します。それより浅くとも効果はありますが、あまり深いと期待する効果が得られないと感じています。刺入していって止まるところの少し手前で止める気持ちで処置します。

硬結などを処理するときには、しっかりと緩めます。鍼を刺した手で鍼そのものが動かないようにしっかり把持し、押し手で皮膚をリズミカルに圧するようにするとよく取れます。鍼尖で経穴をマッサージしているような感じです。このときにも、硬結を貫き通さないようにするほうがうまく取れると感じています。

冷えているものを温めるときにはお灸を用います。冷えのレベルに従ってせんねん灸から直接灸、焼き鍼まで用います。これも、冷えが取れているかどうか必ずしっかりと確認するようにします。熱の強さと、熱の入り方の深さとは関連があると考えています。深く熱すればいいというものではありません。これは、張仲景がしばしば焼き鍼の乱用による骨蒸労熱を戒めている通りです。

せんねん灸などの場合、表面は暖かくなっていても押圧してみると深い位置ではまだ冷えていることがよくあります。左右を比べて反対側よりも暖かくなっているかどうかということを目安にして、しっかり暖めます。暖まっている表皮を冷えている深さまで圧して、その熱を冷えている位置まで入れて混ぜ合わせるということもよく行います。

面積が広いところへは棒灸や附子餅や温石を用いています。一点に対しては線香をそのまま棒灸として用いても効果があがります。

経穴の深さ広さの寒熱などの目標をしっかりと定めて、処置します。




虚実補瀉



古来より、鍼灸師の王道として虚実補瀉があげられています。虚実を知り補瀉を行うことを知らなければ、鍼灸師ではないと言われるほどです。

ところがこの概念は非常に混乱しており、論理的な明確さに欠けるものです。ここでは、虚実補瀉という概念に伴う問題点をいくつか掲げ、一元流鍼灸術のあり方を検討していきます。







虚実とは何か

・難経鉄鑑には、虚とは生命力の虚であり、邪とは外邪であると述べられています。

邪気を排泄するものが、気一元の生命体の力であるということを考えるとき、邪気よりも生命力の虚が問題の中心となります。考える能力のある人であれば、邪気は常に攻撃してくるものをいう言葉ですから実で表現され、生命力は受け手ですから虚として表現されることは理解できるでしょう。

けれども本当にいつも邪気が実で生命力が虚であるならば、生きていることはできないわけです。そう考えるとこの「虚とは生命力の虚であり、邪とは外邪である」という文言は、言葉のあやにすぎないということがわかります。

では実態はどうなのかというと、充実した生命力が少し欠けるときそこにカビのように取り付くものを邪と名づけているということになります。治療とは結局、この生命力の充実度を回復するにはいかにすべきかということが課題となるわけですから、虚実という言葉も、この生命力の状態を表現したものでなければなりません。

・それでは全体としての身体の虚実のことでしょうか?

全体としての身体であれば、弁証論治を行うことによってより詳細な身体の状況を把握することができます。そしてそうやって精密に把握された身体は往々にして虚実が交錯しているものです。

このような括りで表現される虚実とは、光があれば影があるというような、一葉には裏表があるということを語っているに過ぎません。

ここをさらに絞り込んで、五臓のうちのどこに問題の焦点があるのかということを弁証論治で探求していくわけです。

・それでは、六部定位の脉診を通じて経絡の虚実の調整をするということなのでしょうか?(実はこれは経絡治療という流派の人々が行っていることなのですが・・・)

六部定位の脉診を、より正確に全身状況を把握する中から行なっていこうとするものが一元流鍼灸術の弁証論治の姿勢です。脉診だけで決するのではなく、四診合参して、病因病理を機軸として患者さんの理解をしていこうとします。

また、現在は、扁鵲の戦国時代ではなく平和の世であり、患者さんの身体を全体として観察することのできる時代です。そのため、五行穴を使用するという方法だけではなく、全身の経穴をその位置による経穴の表現をじっくりと観察しながら治療を進めていくことができます。五行穴の概念を全身に広げて考えていくことができるわけです。その発想法の基礎についてはすでに「中心概念は体幹と末端」に記載してあります。そこをよく読み砕き、五行穴の世界を超えていただきたいと思います。

・それでは経穴のことでしょうか?

「経穴を表現する言葉」で述べたとおり、一元流鍼灸術では、たとえ経穴診であっても虚実だけで表現することは避けようと努めています。脉診をよくできない人が脉をとって虚脉だ実脉だといって済ませてしまうようなことを許容することは、脉診のできる鍼灸師には到底できないでしょう。それと同じで、一元流鍼灸術を行ずる者は、経穴を虚実という言葉だけで表現することは許容できません。経穴には、脉診と同じようにさまざまな表情があるためです。







補瀉とは何か

虚実という言葉の意味が明確ではないということを上に述べました。それでは、補瀉という行為は明確なのでしょうか?虚実という意味が明確ではないわけですから、何に対して補瀉するのかということが明確であるわけがありません。もし、補瀉を明確に行おうとするのであれば、何を虚とし何を実とするのか、という上記の問いに明確に答える必要があります。

一元流鍼灸術では、経穴の状態に対して対処するということを「経穴に対する処置」で述べています。

全身の問題である場合には、中心を定めるということが患者さんの疾病の治癒に直接結びつきます。

局所の問題であれば、中心を定めるということは、患者さんの自然治癒力を高めるという、側面的な支援となります。

中心を定めるということを目標に治療が行われますので、補瀉とは、あるいは全身の気の濃淡を整え、あるいは五臓のバランスを整える治療行為の抽象的な表現であるとも言えます。

具体的な表現としての補瀉は、「経穴に対する処置」で述べたように、選穴をした経穴の状態に合わせて処置していくことに集約されます。狙った経穴の変化に診断目標の経穴の変化などの四診を加味して、自身の行った処置に対する全身状況の変化を考察し、治療効果を判定していくわけです。

経穴に対してアプローチするということの技術の中に補瀉は包含されていきます。それは、選択した経穴の状態をよく観察し、それに応じた手技を施すということとなります。







虚実補瀉のまとめ

要するに、虚実補瀉という言葉は、一元流鍼灸術においては、「弁証論治によって患者さんの身体を把握し、それに沿って全身の経穴の反応を診ることによって選穴し、選穴された経穴に対してその経穴の形状に応じた処置を行う。」ということに換言されます。




まとめ



以上、現在私が用いている選穴方法と経穴に対する処理方法についてまとめてみました。日々の臨床の参考にしていただけると嬉しいです。

私の臨床の目的には、患者さんの人生がますます素晴らしいものになっていくということのためのお手伝いの他に、臓腑経絡学を検討しなおし、実際の臨床により密着したものを作り上げなおしていくということがあります。

そのため、選穴やその処置については、一元流鍼灸術を使用して臨床を行う他の方々と比べると、選穴においては厳密であり、処置においては淡白になるかもしれません。自身の目標と個性に沿って、自分自身にとっての選穴と処置が書き上げられることを私は望んでいます。



一元流
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