この論文の目的は、『難経』の作者の身体観を量的に比較し、仏教の影響度を量ることにあります。
命門という言葉の意味は、『黄帝内経』では目を意味していますが、『難経』では左腎右命門として臍下丹田に位置づけられています。命門―生命の門というたいせつな言葉の使用法が、『黄帝内経』と『難経』との間でまったく異なるのはどうしてなのでしょうか。そこには人間観―身体観の違いが表現されていると考えられます。
黄帝内経はその名の通り、支那大陸伝来の黄老道が真理に至るための方法として使用されている書物です。黄老道の方法とは、人身をひとつの小天地として、陰陽という観点と五行という観点から観ていこうとするものです。(注1)
古代漢帝国の西域に仏教の言葉が伝えられたのは紀元前2世紀であると伝えられています。(注2)そして、紀元後65年にあたる後漢初期、初代名君 光武帝の三男、楚王英が仏教を篤く信奉していたこと、そしてその周辺には仏教徒集団があったことが伝えられています。(注3)
難経には三三難や七五難などに讖緯説が取り入れられていますので、古くとも白虎観会議(78年~81年)以降に書かれたものであると考えられます。また『傷寒論』(張仲景著200年ころ)の序文に引用されていますので、それ以前には書かれていました。ですからその書かれた時代は後漢中期、西暦100年代ということになります。(注4)
仏典の翻訳が行われはじめたのは後漢末以降ですから、『難経』の作者に仏教として伝えられていたものは、仏教伝達の強い意志を持って渡来してきた仏教徒集団との出会いと、その生活への関心―感応だったことでしょう。そしてその根底に、偉大なる悟りをひらいた者が天竺に誕生し、彼らがその人を覚者として尊崇し続けていたということがあったでしょう。彼は大いなる苦行の果てに死を目前にして一杯のミルクによってその生命を救われることとなりました。そして菩提樹の木の下で深い禅定に入り、それを通じて覚りをひらいたわけです。道を求める者にとってはその逸話だけで十分でした。ただすべてを捨てて禅定を行い、我が内なる生命に直接触れて法悦を得るところまで至ったことでしょう。(注5)そしてそこで得た身体観が肚―臍下丹田を中心とした身体観でした。(注6)
もし翻訳仏典がそろっている時期であったならば、その後、書籍の分析と研究に没頭することになったのでしょうが、幸いにしてまだ文献資料はそろってはいませんでした。そのため『難経』の作者はその直接の体験の中から新たな身体観を紡ぎだし、それを医学研究に応用していったのでしょう。
讖緯説は後漢初代の皇帝である光武帝が戦った、漢帝国の簒奪者「新の王莽」が自己正当化のために利用した儒教の神秘思想です。その思想的な起源は鄒衍の五徳終始説にまで遡りますが、儒学者がこぞって研究し学び始めたのは後漢に入って光武帝が讖緯説を自己の権威付けのために利用し始めてからでした。
このようにして『難経』で使われている身体観には、『黄帝内経』と同じ流れをくむ伝統的な黄老道のもの、『黄帝内経』が書かれた後にできた讖緯説によるもの、讖緯説ができたのと同じ頃に伝来した仏教思想によるものという三種類がそろうこととなったわけです。この量的な比較をすることによって、『難経』の作者の複合的な身体観を窺うことができ、そのよって立つ思想基盤がより明確になっていくことでしょう。
【背景】『難経』には仏教と讖緯説という新たな身体観が包含されている
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