『難経』の時代まで、道―真理の求め方において指導的な役割を果たしてきた黄老道の認識方法は、一括りの存在を陰陽という観点 五行という観点から点検しなおして分類しその相互関係を探りながら、存在そのものの理解へと肉薄していこうとするものです。先秦時代の支那人の真理探究の癖がこれであると言えましょう。その際の意識の焦点は五感と頭脳に置かれます。五感を通じて感じ、観たもの感じたものを整理していくわけです。
これに対して仏教の認識方法は頓悟、一気に存在そのもの生命そのものである自己に触れ、それを味わうことによって世界への理解を闢(ひら)いていくというものでした。その際の意識の焦点は臍下丹田に置かれます。五感をも断ち、自身の生命そのものを感じ取るために深く意識を内側、臍下丹田に納めきるところから始めるわけです。そこには、外部に真理を求めることに対する、深刻な絶望が存在しています。ここが、求道の果ての死の淵において、一杯のミルクによって仏陀がたどり着いた悟りの原点です。絶望の底でなおそのすべてを手放したときに落ちていった底に存在する「歓喜が沸く淵」こそが、ここです。絶対の生命の場、リアルに生命そのものを感じ取ることのできる場所です。
この意識の位置の違いは、非常に大きなもので、方向性としては真反対であると言ってよいでしょう。そしてこのことは、後世の道教における存思法と禅の内観法との違いにも現れています。存思法は意識を実際に存在するものよりも優位におき、意識の力を用いて内なる神をイメージし見いだそう(あるいはさらに作りだそう)とします。(注7)それに対して座禅の瞑想法は、五感の鬼・意識の鬼を断つことによって、実際に現れてくる生命をありのままに感じ取ろうとするものです。
『難経』の身体観はまさに後者、仏教の感取法によって把えられた、気一元の生命の構造を明らかにしているものです。それはまた、単純な数式的な五行論を越えて、強弱濃淡をもった身体構造として、気一元の森であるこの身体を表現しようと苦心しているものであるとも言えます。
『難経』において示唆されたこの臍下丹田を中心とした気一元の身体観という仏教の身体観は、はるかに時代を千年ほど下った日本において花咲きます。知識の担い手であった日本の僧侶は、暗黙の内にこの臍下丹田を中心とする身体観を身につけていました。彼らのうち大陸に渡り医学知識を身につけた者を僧医と呼ばれていました。
鎌倉時代には禅僧として支配階級である武士と結びつき、五山文化を築きました。そこに武士道が誕生した秘密があります。彼らによって「肚」を極めることの大切さが透徹していき、切腹という自裁が名誉ある死として尊ばれることとなります。そしてそれに伴い医術においても、腹診術が日本において発展していったわけです。
江戸時代に入るとこのあたりのことが『難経鉄鑑』という名著としてまとめられました。さらに明治に入るとこの身体観に基づいた健康法が日本を見直す基軸となります。これが、岡田式正座法であり、野口整体の活元運動の端緒となりまた、肥田春充の身体観の基礎となったわけです。
【背景】『難経』には仏教と讖緯説という新たな身体観が包含されている
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