目次

『難経』は仏教の身体観を包含していた
―『難経』における身体観の量的分析



注1:『道家思想の起源と系譜』―黄老道の成立を中心として―



『道家思想の起源と系譜(上)』―黄老道の成立を中心として― 浅野裕一著 島根大学教育学部紀要(人文・社会科学)第十四巻

『道家思想の起源と系譜(下)』―黄老道の成立を中心として― 浅野裕一著 島根大学教育学部紀要(人文・社会科学)第十五巻




注2:魏書 釈老志 詳細は 注4 参照






注3:後漢書 巻四十二 光武十王列伝 楚王英伝 詳細は 注4 参照






注4:『難経』が書かれた時期は紀元後100年前後



『難経』が書かれた時期は、『傷寒論』に引用書籍としてあげられていることからその下限は西暦200年となります。そして『難経』の中に讖緯説にもとづいた記載が見られることからその上限は白虎観会議(78年~81年)より後となります。その記述が穏当であり、『傷寒論』にみられるような危機感がなく、学究的な香りがすることから、おそらくは西暦100年前後に書かれており、後漢末の戦乱や疫病が起こる前に完成していたでしょう。楚王英(?~71年)が亡くなったあと数十年を過ぎたころになります。

この項、『難経疏証』〈解題〉(丹波元胤著)人民衛生出版社版 参照




注5:仏教の伝来時期とその身体観:楚王英とその周辺を中心に



仏教が口授されたという記録はもっとも古いもので紀元前2年月氏を通じて伝来したという記述が『魏書』「釈老志」にあります。けれどもこれを信ずることはなかったとも同書には書かれています。

次に公文書として記録にあるものは、後漢初代光武帝の三男である楚王劉英(楚王英:~71年)が紀元後67年に仏教と黄老をともに祀っていたというものです。(『後漢書』巻42の楚王英伝)後漢の明帝の異母弟でもあった楚王英は、謀反を企てたとして誣告されます。けれども明帝の温情によって絹を献上することによって赦されます。その際、帝は楚王英が黄老と仏教とを尊び潔斎を行っていたとして信を与え、さらに献上した絹を楚王英に返し、彼が信奉していた仏教徒集団の供養とするようにと伝えています。

このことは当時すでに仏教徒集団が都である洛陽ばかりか、都からはるかに離れた沿岸の地においても活動していたということを示しています。紀元前2年にシルクロードを経て伝えられた仏教が、半世紀を経て大陸の東海岸にまでその影響が及んでいたわけです。明帝は仏教徒を援助することをよいことであるとしており、また、明帝の異母弟である楚王英は、昔からある黄老と同じように仏教を祀っていました。当時はまだ漢訳仏典なども整備されていませんでしたから、大いなる悟りをひらいた苦行者―釈迦の存在と、その悟りの体験を禅定を中心として伝えていた仏教徒がいただけでしょう。







『難経』の作者もこの楚王英のように仏教に私淑していた一人であると私は考えています。その理由は、

1、『黄帝内経』では命門が目を意味していたのに対して、『難経』では腎―腎間の動気―命門(すなわち臍下丹田)を意味するものへと意識的に変更されていること。

2、臍下丹田の位置を意識することは内部に向かった深部感覚ですが、『難経』に至るまでそのような内向的な意識を表現する言葉を支那人は持っていなかったこと。

3、『難経』で表現されている腎―腎間の動気―命門は、自ずからなる生命の中心を表現しているということ。

の三点が挙げられます。ことにこの三番目の自ずからなる生命の中心である臍下丹田と、この三百年ほど後に語られることとなる道教の存思法との大きな違いについては、「派生的考察」の中で述べているとおりです。







「禅定は釈迦以前から存在する修行法であり、紀元前1500年以前からインドの原住民の間で行われていました。」(『仏教入門』 インドから日本まで 瓜生中著 平成23年9月10日 大法輪閣 刊124ページ)

釈迦が激しい苦行の末、悟りをひらくことができないという絶望の底、死に瀕した釈迦を救ったのがスジャータの与えた一杯のミルクであったというその経緯は、中国の求道者にも大いなる啓示となったことでしょう。それは、外に向けられていた意識の方向性が、豁然とした絶望の中で自己の中心に落ちていき、そこにおいてまさに自身そのものである生命そのものと出会うという歓喜に触れるというものです。

仏教の身体観を得るためには、釈迦が苦行の末に偉大な悟りをひらいたその経緯を知り、真剣に禅定を行うだけで足ります。『難経』の作者のような「道を求める者」が真実生命観を得ようとするとき、そのきっかけとして仏教が伝わってさえいれば、それを通じて大悟することができるでしょう。

仏教のような体験的宗教にとって、言葉はその体験を伝えようとするものではありますけれども、体験そのものではなく、また、言葉で語られることによって実は体験が汚されるものです。仏教の煩瑣な理論は、それでもその「体験に至る道」と「体験そのもの」そしてその「体験から得たもの」を伝えようとして積み上げられたものなのです。







さて、文章を作成するには、文字を読み文字を書き論理的に思考することが必要となります。ということは『難経』の作者は上流階級の道を求め医学的な知識を持つ人士であると考えられます。もしかすると楚王英の取り巻き、あるいはその流れを汲む者が『難経』を書いたと考えることもできます。




注6:左腎右命門を臍下丹田と解するのはなぜか



『難経』三十六難に、「その左にあるものを腎とし、右にあるものを命門と」するとありますが、これに対して『難経鉄鑑』の作者広岡蘇仙は「本文ですでに腎には二枚あると言っています。また腎は精と志とを蔵し、命門はその気を腎に通じさせていると言っています。このように腎と命門とは一つの物であって、命門はただその尊称であるだけです。」と述べまた命門と腎間の動気との関係を解説して、「命門には形があり、位という観点から言っています。動気には形がなく、気という観点から言っています。命門はすなわち動気の舎る場所なのです。」と述べています。このようにして『難経』の作者自身の結語である「腎が一つであることを知ることができます。」という文言を解釈しているわけです。

このように、この江戸時代前中期の『難経鉄鑑』の解釈は、『難経』の作者がほんとうに言いたかったことを明らかにしたものであると考えられます。私はこの解釈に『難経鉄鑑』六十六難の図を合わせて、これが現在で言うところの臍下丹田を意味しているものであると考えました。

『難経鉄鑑』広岡蘇仙著 伴 尚志現代語訳 たにぐち書店刊 647頁~661頁 参照




注7:『不老不死の身体』加藤千恵:大修館書店:2002年初版第一刷






参考文献:使用している『難経』の主な版本



『王翰林集註黄帝八十一難経』慶安五歳(1852年)孟夏月 武村市兵衛刊行の影印本 日本伝統鍼灸学会 創立四十周年記念出版

『難経鉄鑑』広岡蘇仙 著 1729年刊

『難経経釈』徐大椿 著 1727年「叙」記載 江蘇科学技術出版社 1985年3月第1版第1次印刷

『難経校注』凌耀星 主編 1991年 第1版 第1次印刷 人民衛生出版社

『難経訳釈』南京中医学院医経教研組 編著 上海科学技術出版社 1980年 第2版 第6次印刷







【目的】『難経』の身体観の量的分析

【背景】『難経』には仏教と讖緯説という新たな身体観が包含されている

【方法】難経脉診における身体観の量的な比較

【実際】詳細は附録資料を参照のこと

【結果】黄老道の身体観を中心とし、仏教の身体観をも多く取り入れている

【考察】仏教に基づいた身体観の大いなる飛躍が『難経』の特徴

【派生的考察】『難経』が開いた仏教の身体観は日本で開花した

【用語解説】黄老道・讖緯説・仏教

  注1:『道家思想の起源と系譜』―黄老道の成立を中心として―

  注2:魏書 釈老志

  注3:後漢書 巻四十二 光武十王列伝 楚王英伝

  注4:『難経』が書かれた時期は紀元後100年前後

  注5:仏教の伝来時期とその身体観:楚王英とその周辺を中心に

  注6:左腎右命門を臍下丹田と解するのはなぜか

  注7:『不老不死の身体』

参考文献:使用している『難経』の主な版本











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