補瀉迎隨を論ずる 第一




私は《内経》を読んでいろいろ考えているのだが、その意味するところが非常に幽玄で微妙であるため、まだ明確な結論を得てはいない。







《霊枢・九鍼十二原》に、『瀉法を用いるときは、鍼をしっかり持って入れ、穴処を揺らして抜いていき、鍼口を開いて{一説には:旋捻しながら邪気を引いて}抜鍼する。このようにすれば邪気を漏らすことができる。補法を用いるときは、その穴の状態に従う。その穴の状態に従うとは、意のままに鍼が動き、気をめぐらしたり、押し手で少し按じてみたり、蚊や虻が皮膚にとまるような状態で止める。鍼を留めるような還らすような微妙な状態の中から、張り切った弦が切れるような速さで瞬間的に抜鍼する。押し手と刺し手とを連動させて素早くこれを行なえば、集まってきた正気はここに留まることとなる。外の門がすでに閉じているので、内にある気は充実していくのである。』とある。







また、『徐々に鍼を入れ徐々に抜鍼していくことを導気といい、これは補法である。』ともある。世間にもまた補瀉を論ずる者があり、「施鍼するとき、呼吸に逆らって行ない鍼口を開いて抜鍼するものを瀉といい、呼吸に隨って行ない鍼口を閉じて抜鍼するものを補という。」とある。これはやはり単に一説であり、これに従うべきものでも従ってはいけないような説でもない。なぜかというと・・・・・







《難経・七十八難》に、『補瀉の方法は、必ずしも呼吸に従って鍼を出し入れするということだけではなく、非常に複雑な技法がある。鍼を施すことを知っているものは押し手に信を置き、鍼を施すということを知らないものは刺し手にその信を置く。いざ刺鍼するときには、先ず左手で、刺鍼しようとする腧穴を按圧し、指で弾いて気血を集め、さらに爪で圧迫する。動脉の拍動するような状態でその気が集まってきたならば、その気の動きに乗じて鍼を刺入していく。集まった気を推し入れるように、さらに鍼を入れていくことを補という。集まった気を鍼を揺らして散らしながら、少し鍼を引き上げて邪気を外に逃すことを瀉という。もし刺入して気を候っても気が集まってこないときには、男性は浅い衛気の流れる場所に女性は深い営気の流れる場所に刺入して気を窺ってみる。このようにしてもなお気が集まってこないようであれば、営衛の気がもう無くなっているのであるから、不治の病である。』とある。







師は言われた、「左右で補瀉の方法を分けなければならない。左側を瀉そうとするのであれば拇指を内側に入れ、右側を瀉そうとするのであれば拇指を外にあてる。これを反対に行なったものを補という。」と。







同志が聞いた、「《難経》の本意とするところは、呼吸による補瀉を用いてはいけないというところにあるのでしょうか。」

私は、「本当のところは、呼吸による補瀉を用いてはいけないとは言っていないと思う。なぜなら、《素問・離合真邪論篇》に、『吸気時に鍼を刺入し、その気が逆らうことのないように鍼を進め、静かに長く留めて邪を散布することのないようにする。吸気時に、得気を得るために鍼を旋捻する。その後、呼気を窺いながら鍼を抜いていき、呼し終ったときに、鍼を抜き取るようにする。そのようにすると、鍼下に集まった邪気が全て出ていく。これを名付けて瀉法というのである。』とある。これは呼吸による補瀉を言っていると思う。

《難経》に、『必ずしも呼吸に従って鍼を出し入れするということだけではなく』とあるうちの、この、『必ずしも』という部分が重要である。つまり、呼気時に鍼を刺入し吸気時に抜鍼することを補法とし、吸気時に鍼を入れ呼気時に抜鍼することを瀉法とすることが、これだけでは《内経》の深意を尽してはいないということを言っているのだ。楊氏や虞氏が呼吸による補瀉の方法を論じているのを見れば明らかである。だから、呼吸による補瀉の方法が全く必要ないなどとは言っていない。」と、答えた。







師は言われた、「補瀉は迎隨をもって主とすべきである。経脉の気の走行に逆らって迎えてこれを刺すものを瀉法とし、経脉の気の走行に順って隨ってこれを刺すものを補法とする。この迎隨を手の内に納め、意識的に経脉の流れを調節することができるようになれば、そこで鍼の道は完成する。」







手足の三陰三陽についてもまた語っている。「手の三陰は臓から手に向かって流れ、手の三陽は手から頭に向かって流れ、足の三陰は足から腹部に向かって流れ、足の三陽は頭から足に向かって流れる。これらの気の流れに逆らうように刺鍼することを迎と呼び瀉法とする。これらの気の流れに順うように刺鍼することを隨と呼び補法とする。」







ある人が聞いて言った、「鍼で瀉することはできるけれども補うことはできないとよく言いますが、どのようにすれば補うこともできるようになるのでしょうか。」私は答えて言った、「鍼で全く補うことができないと言っているわけではありません。《内経》の諸篇には以下のような言葉があります・・・・







《霊枢・根結》に、『形気が不足して病気も不足のものは、陰陽の気が倶に不足しているのであるから、これに刺鍼してはいけない。』とある。

《素問・宝命全形論篇》に、『人には虚実の症状がある。五虚の症状のものに近付いて瀉法を施してはいけない。五実の症状のものから遠ざかり瀉法を避けてはいけない。』とある。

《霊枢・五閲五使》に、『血気が有り余って肌肉が堅く引き締まっているものに鍼をするとよい。』とある。

《素問・奇病論篇》に、『不足のものをさらに損じてはいけないと言うのは、身体が羸痩しているものに鍼や石で治療してはいけないということを言っているのである。』とある。

《霊枢・脉度》には、『邪気が盛んなものはこれを瀉し、正気が虚するものは服薬によってこれを補う。』とある。

《霊枢・邪気臓腑病形》には、『脉が小さく陰陽形気などの全ての徴候が不足するものは、鍼刺を用いてはいけない。緩和の薬を用いるべきである。』とある。

これらの経文が、鍼では補うことができないといっていることの論拠です。







しかし、師はいつも言われた。「人身の血気は往来し、その経絡は相互に流貫しているものであるから、陽経を瀉すことによって陰経を補うことができ、また逆に陽経を補うことによって陰経を瀉すこともできる。全身の陰陽を調和させることによって全身の気血を調えようとするのであるから、陰陽どちらか片方だけが強くなるということを無くし、そのバランスをとることに主眼を置いて治療するのである。これがいわゆる補瀉ということの意味である。世の中の鍼灸を業とするものは、その腕が未熟であるにもかかわらず、営衛の虧損したものや、全身がやせ細り精が虚し気が竭したものに対しても、鍼を用いることによって無理に補い調えようとするため、反ってその元気自体を傷つけることになるのである。このことをして、鍼は瀉することはできるけれども補うことはできないと言うのである。」この言葉に全てが言い表わされていると私は思う。私はまた《内経》の諸篇について考えをめぐらしてみる・・・・・







《霊枢・九鍼十二原》に、『虚実の要は、九鍼に最も妙なる法がある。補瀉を行なうときには鍼を用いてこれを行なうべきである。』とあり、

また、『虚しているときにこれを実するということは、気口の脉が虚している場合にこれを補うということである。』とある。







鍼灸を業とするものの大義が、ここに真に書かれている。病邪が経絡に滞ったり気が臓腑に逆した場合、それが鍼の適応症となるのである。同志の方々はここにおいて長年の疑問に解決をつけていただきたい。







一元流
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