三焦のこと




三焦は水穀の道路を主り食物を消化する。上焦・中焦・下焦の三を合して三焦という。

このように上焦・中焦・下焦の三に分けるということは、天地人の三才と同じ意味である。

これから考えれば、腎間の動気は天に日月があるようなものである。日月があるようなものであるということは、たとえば草木が育まれ物を日に干すと乾くということであり、これらが皆な日月の恵なのであるということである。

前には、灯火を腎間の動気にたとえて語ったが、ここでは三焦を中心にして語ろうとしているので日月をもってそのたとえとしているのである。

しかし、灯火があるから座敷が明るくなるということと、日月の恵によって草木が育まれ物を日に干すと乾くということとは、同じ意味である。







思うに、三焦と腎間の動気とはもともとは一体であるが、なぜ分けて考えるのかというと、灯火があるから座敷が明るくなるということと、日月の恵によって草木が育まれ物を日に干すと乾くということは、実は三焦の作用であるため、三焦を遍満する気と言うからである。

《難経》に、三焦は名ありて形なし泡のごとく霧のごとし、とあるのは、この意味なのである。

三焦はそもそも医道の第一の口伝である。その理は非常に広く限りがないものである。ここにはただその根底となる部分のみを記した。《霊枢・十八篇》や《難経・三十一難》を読めば、よく理解することができるであろう。

この三焦は結局のところ下焦が根本である。下焦とはすなわち腎間の部である。







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