井栄兪経合のこと




五臓にはそれぞれ井栄兪経合があり、六腑にはそれぞれ井栄兪原経合がある。五臓六腑は手足を主るので、経絡にも終始がある。

肺心の二臓の井栄兪経合は経絡の終りにあり、脾肝腎三臓の井栄兪経合は経絡の始めにあり、膀胱胆胃三腑の井栄兪原経合は経絡の終りにあり、大腸小腸三焦三経の井栄兪原経合は経絡の始めにある。

たとえば、肺経の井栄兪経合は、少商の穴を井とし魚際を栄とし太淵を兪とし経渠を経とし尺沢を合とする。

また、大腸の井栄兪原経合は、商陽[絶陽]を井とし二間を栄とし三間を兪とし合谷を原とし陽谿を経とし曲池を合とする。

このほかの諸経は、この肺大腸経を例として理解していけばよい。







では、井栄兪経合という名前は何からきているのだろうか。

《難経本義》に項氏が家説を引いて、

谷間から湧き出る水の源を指して井と言う。人の井穴も気血の流れ出る源なので、井と言う。

栄穴は、谷間の水が湧き出て後その状態が見えるところに連続しているので、栄と言う。

兪穴は、水が湧き出て溢れるところに准じて、兪と言う。

経穴は、水が溢れて流れ行くところに准じて、経と言う。

合穴は、水が流れて陥るところに准じて、合という。

ゆえに《内経》に、出るところを井とし、溜るところを栄とし、注ぐところを兪とし、行くところを経とし、入るところを合とする、とあるのである。

これらは皆な、水が湧き出て後、あるいは溜りあるいは注ぎあるいは流れあるいは水が流れて陥るという意味である。







では、六腑の井栄兪経合に原穴があるということは、何を意味しているのであろうか。

そもそも三焦は腎間の動気の別れである。このため三焦を尊崇して原と名付けるのである。

また、三焦は腎間の動気の使いであり、全ての経の陽分を循るため、どの経にも三焦の気が循り止まるところがあり、これを原穴というのである。これは実は三焦の名前なのである。

これは、《難経・六十六難》に基づいて語っている。







井栄兪経合それぞれには木火土金水の五行が具わっているが、陰経と陽経とでは異なった配分がされている。

陰経の井穴は木を主り、栄穴は火を主り、兪穴は土を主り、経穴は金を主り、合穴は水を主る。これは皆な相生の関係である。相生というのは、木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ずるということを指して言っている言葉である。これは親子の道理である。たとえば、井穴は木で栄穴は火であり、木は火を生ずるものである。ゆえに親子というのである。井穴から合穴に至るまでこの例のような関係をとるものを全て相生というのである。

また、陽経においても井穴は金、栄穴は水、兪穴は木、経穴は火、合穴は土とし、陰経にあるのと同じように相生関係をなしている。たとえば、井穴を金とし栄穴を水とすると、金は水の母であるから、これを親子というのである。このように、井穴から合穴に至るまで、互いの関係は全て相生関係である。

また、陰分の経絡の井栄兪経合と陽分の経絡の井栄兪経合とを並べてこれを見ると、相剋関係になっている。相剋関係というのは、木が土を剋し、土が水を剋し、水が火を剋し、火が金を剋し、金が水を剋すといったものである。たとえば、陽経の井穴の金と陰経の井穴の木とを並べてこれを見ると、相剋関係になっているのである。この陰経の井穴と陽経の井穴とを並べる例と同じように、栄穴から合穴までを並べ合わせてこれを見ると、全てそれぞれに相剋関係となっている。この関係をまた夫婦ともいうのである。







この井栄兪経合は、それぞれ五種類の病を治療することを主るので、古人はもっぱら井栄兪経合を用いて病を治療したといわれている。

この井穴が治療する病を《難経》では、井は心下満を主り、肝木の病である、とある。この心下満というのは、心下が塞がり満ちて痞(つか)えていることをいうのである。なぜかというと、肝の臓の性は木であり脾の臓の性は土であって、心下は脾の主るところなので、肝の臓が木剋土と土を剋したために生ずる病だからである。これを治療する場合に井穴を用いて鍼を刺すのである。井穴も木を主るからである。

栄穴は身熱を治療するといわれている。なぜかというと、心の臓の性は火であり、栄穴も火を主る。ゆえにこの病を治療する場合に栄穴を用いて鍼を刺すのである。これは全て心火の病だからである。

兪穴は体重節痛するものを治療するといわれている。身体が重く節々が痛むということについて《内経》には、脾は四肢を主る、とあることから考えると、脾の臓の気が不足するときは、手足に力がなくなるため、身体が重くなるのであろう。また、土は湿気であり、濁る物を湿気とするのであるから、土の性は重いものである。《内経》に、湿気は人の肌肉筋脉を傷る、とある。手足や全身の節々の気血は非常に清らかでなければ、痞(つか)えて循り難くなるものである。湿は土気であり重く濁った気であるため、節々に滞り易く、動き難いものである。このような病を治療するために、兪穴を用いて鍼を刺すのである。兪穴が土を主るためである。

経穴は喘咳寒熱するものを治療するといわれている。喘咳寒熱とは、喉がいがらくなったり咳嗽したり発熱悪寒するもののことである。なぜかというと、肺の臓の性は金であり、経穴も金を主るために、このような病を治療する場合に経穴を用いて鍼を刺すのである。肺金の病だからである。

合穴は逆気して泄するものを治療するといわれている。ここでいう逆とは、気が逆上することである。腎は水であるから升ることはないわけだが、腎中の命門の陽気は全身の陽気の根本である。一般的に陽の性は逆上するものなので、腎の積を奔豚といい、この積をすなわち腎気の逆上とするのである。泄するとは、大便が下るもののことをいう。なぜかというと、腎の臓の性は水である。合穴も水を主るために、こういった病を治療する場合に合穴を用いて鍼を刺すのである。これは全て腎水の病である。思うに腎の臓は、脾胃を統括し引き締めるものとしてその下部を主る。ゆえに《内経》に、腎は胃の関である、とあり、これによって腎が下部を主り脾胃を統括し引き締めるものであることを明確にしているのである。このようなことから、合穴には大便が下ることを主ると言っているのである。

古人がもっぱら井栄兪経合を用いることによって病を治療するということには、このような次第があるのである。







《難経》に、春に井穴に鍼を刺すのは、邪気が肝の臓にあるからである。夏に栄穴に鍼を刺すのは、邪気が心の臓にあるからである。土用に兪穴に鍼を刺すのは、邪気が脾の臓にあるからである。秋に経穴に鍼を刺すのは、邪気が肺の臓にあるからである。冬に合穴に鍼を刺すのは、邪気が腎の臓にあるからである。とある。

このように、春には井穴・夏には栄穴・秋には経穴・冬には合穴・土用には兪穴を刺すと言うのはなぜかというと。

肝の臓の性は木であり、木は春を主るのでその邪気が肝の臓にある。そのため、春の病は井穴に鍼を刺すのである、井穴もまた木を主り肝の臓に属するからである。

心の臓の性は火であり、火は夏を主るのでその邪気が心の臓にある。そのため、夏の病は栄穴に鍼を刺すのである、栄穴もまた火を主り心の臓に属するからである。

脾の臓の性は土であり、土は季の夏を主る、季の夏とは土用のことであり、その邪気が脾の臓にある。そのため、土用の病は兪穴に鍼を刺すのである、兪穴もまた土を主り脾の臓に属するからである。

肺の臓の性は金であり、金は秋を主るのでその邪気が肺の臓にある。そのため、秋の病は経穴に鍼を刺すのである、経穴もまた金を主り肺の臓に属するからである。

腎の臓の性は水であり、水は冬を主るのでその邪気が腎の臓にある。そのため、冬の病は合穴に鍼を刺すのである、合穴もまた水を主り腎の臓に属するからである。







ある人が聞いて言った、「四時を五臓にたとえれば、春は肝・夏は心・土用は脾・秋は肺・冬は腎であり、これらはそれぞれの四時を主りその時期には非常に旺(さか)んになっている気であります。旺ずるものは邪を受けず、と《難経》には書かれています。もし春は肝の井穴・夏は心の栄穴・土用には脾の兪穴・秋には肺の経穴・冬には腎の合穴に鍼を刺して邪を避けるというのであれば、旺ずるものが邪を受けることになりますが、これをどう考えたらよいのでしょうか。」と。

答えて言った。「旺ずるとは、その時を主りその位にあることである。前に語っている邪気というのは、外から来る邪気のことではなくその時期に旺じその時期を主る気が亢じすぎたものである。その時期の旺ずる気が平和であるということは、その位相応の旺じかたで無病安穏の状態であるが、その時期の旺ずる気が亢盛になりすぎるときは反って病であり邪気として把えるのである。そのため、その気が亢じているものに鍼をして平和にさせ、その時期の旺ずる気を助けるのである。前に、五臓の邪気を井栄兪経合に鍼刺して避けると言ったときの邪気は、外から来る邪気ではない。旺ずるものは邪を受けず、とある邪は外から来る邪である。この篇の始めから終までよく読んで考えていけば、井栄兪経合のことを詳細に理解することができるであろう。」







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