総論






外気の大過不及が身体に悪影響を及ぼすことがあります。これを外因と呼びます。

感情の場合と同じように、適度な外気は身体を育て鍛える基となります。

適度な外気がどの程度かということには、個人差があります。いわゆる器の異なりがあるということです。感受性が異なるだけでなく、病の方向となるか、鍛え上げられることになるかの違いがそこに存在するわけです。

古典ではこの外気の種類を六種類あげています。風・寒・暑・湿・燥・火がそれです。







これまで一元の気としての器や場のことを問題として述べてきましたが、外因を考える時点において初めて、一元の気としての統一した身体観から逸脱することとなります。

人の生命のありようということを考えた場合、健康ばかりか生命のありようを決するような外因として、天災、犯罪や事故、経済的な破綻、社会の崩壊といった究極の局面が考えられます。これはいわば生活の基盤そのものが崩壊するような状況です。

これに対して、東洋医学で考える外因は、外気の異常です。外因としてあげられている六気は、もともとは生命力を育み人の器を育てる外気のことを意味しています。しかし六気の濃淡が極端に現われ、邪気として人に影響を与えるようになるとき、古人はこれを「六淫の邪気」と名づけました。







本来は生命力を育む外気がバランスを失って生命力を損傷する図は、健康増進のためにはじめたスポーツをやりすぎ、かえって健康を損なうことに似ています。

その、健康増進あるいは生命力を育む周辺状況はどのようなレベルのものであるか、ということに関しては個人差が大きいものです。そのため、私は器という概念を作り出して、これを「一元」の項目の中で整理しました。

生命力が虚していなければ外邪が入ることはないということは、古来言い習わされていることです。そのとおり、一元の気の器をできるだけ調えるということが、外邪に対する備えにはなります。けれども、外邪が入るか入らないかということは、生命力の充実度という要素の外に外邪の強さという要素がありますので、一概に言えるものではありません。

「人事を尽くして天命をまつ」という言葉の生きてくるところです。











一元流