精神の中心






肉体的な中心はまだ意識しやすいものなのですが、精神的な中心がいずこにあるのかということを意識することは非常に難しいものです。

中庸という言葉があり、中庸を得るということが、精神的な中心を得ることができた状態のように思われます。しかし、中庸を得るということを深く考えるなら、たとえば、極左を知り極右を知り、それを生命のバランスの中で参酌することからしか、中庸を得るということはできません。

中庸を得る、ということは実は、自身の信じる道を行ずる、ということに他ならないのです。

自身の信じる道が、実は中庸から外れているのではないか。その判断は、まさに全体、一を、どこに定めているかを自身で検証する中でしか得ることができないものなのです。

場、の範囲を決めることができれば、自ずとその場の中での真理というものが決まってきます。どの世界でいきるのか、どの場を選択するのか。それが問題です。

おのれの場の範囲をどう決めるのかということを検討する姿勢の中に、真理を求め真理に向かう人々の共通言語があります。







さて、確固たる器を築くためには、肉体の中心を得るとともに、精神の中心を得る必要があります。そしてそれが往々にして同時に起こるところに心身一元の不可思議が存します。

しかし凡夫である我々にとって、自らの力でそれを得ることは至難の業です。そのために、釈迦の徳にすがる、法華の妙法にすがる、阿弥陀の衆生済度にすがるという道が用意されているわけです。広大無辺の御徳に自らを溶かし込むことによって大安心を得、その穏やかな大いなる慈悲の中に自己へのこだわりを溶かし棄て、中心を得させていただくわけです。











一元流