長沙腹診考

結胸


結胸は胸の疾病です。胸中が陥下して引きつまり、項背が強ばり心下から少腹まで満ちるもので、大陥胸湯の症です。この症状のある者は、卒病【原注:世に、卒中 早打ち肩 そり病 等と言われているもの】の徴(きざし)ですから、軽くみてはいけません。

村井椿壽の『方極刪定』では、結胸とあるものを刪(さん)して〔訳注:改定して〕「心下から少腹に至るまで満ちて痛み、近づくことのできない者」としています。師説に悖(もと)るだけでなく、方意〔訳注:処方の意味〕をも大いに損なっています。『建殊録 附録』に「大陥胸湯の主治は結胸の症状です」と述べられています。『東洞遺書』に「結胸は胸中のことです。心下満して鞕痛するのは、胸中の毒が及んでいるためです。」と述べられています。であれば、結胸が大陥胸湯の主症であることは明らかです。村井はこのことを理解できずに妄誕(もうたん)をなしている〔訳注:でたらめを語っている〕わけです。


付言

中山道の深谷の駅に私がいたとき、五十余才の芹沢某が突然病にかかり、湯薬を口に入れることもできずに斃れてしまいました。それから一月を経たころ五十才ほどのその妹も突然人事を失った〔訳注:気絶した〕ため、家人があわて私を招きにやってきました。すぐに行って診ると、結胸で項背がきつく強ばっています。三稜鍼で肩背を二三十ヶ処刺しましたが血が出ません。同時に大陥胸湯を急いで煎じて口に注いだところ、二時間ほどして大便がよく通じて、心胸が安らかになった感じがしました。けれども病毒はまだ尽きてはおりませんので、大陥胸湯を作って危急の手当てのためにと置いて帰りました。二三日して再び発症しましたので、また大陥胸湯を用いました。このようなことを三四回繰り返したら、完全に治りました。

同郷の八田村に七十五六才の老婆がおりました。湿瘡が治った後、全身が洪腫〔訳注:ひどくむくみ〕、短気〔訳注:呼吸が短くなり〕、息迫して死にそうでした。大陥胸湯を与えました(甘遂一銭、大黄二銭、消石四銭)。大便がよく通じて、数日で治りました。

上州の桐生の指物師の五十才ほどの老母が、水腫を患い結胸し、腹が実満して起臥することもできませんでした。大陥胸湯を用いて治しました。

深谷の駅の万屋の僕(しもべ)の藤吉五十才。瘡毒が内攻して全身がすべて腫れて、胸腹がきつく満ちて非常に苦しんでおりました。すべての衆医が必ず死ぬと診断していました。私が大陥胸湯を作って与えたところ、数十行の下痢の後、諸症がすぐにとれて治りました。

私の弟が太門の桐生で浴室に入ったところ、一人の男子を見て、「あなたは卒病を発する症がありますよ」と告げました。その男子は驚いて「私はいつも胸が痛み肩背が強ばるので、小刀を肌身離さず持っています。危急の時に切り裂くためです。もし良い方法があったら施術していただけませんか」と言われました。弟が診てみるとやはり結胸の症があります。「大陥胸湯を時々服用すればその症状をとることができますよ」と告げたということです。


この症は危篤の症です。軽視してはいけません。

私は大陥胸湯を用いて数え切れないほどの奇効を奏しました。

『傷寒論』には、結胸の症が備わっているものは死ぬと述べられています。後人の語なので信ずるには足りませんが、のんびりと治療していると救うことができなくなります。

症状が出る前に薬を与えます。薬が病毒を制圧することができるか否か〔訳注:が大切なところ〕です。兵法に、「先んずるときは人を制し、後れるときには人に制せられる。」とあります。

用いるべきであるのに用いなかったために死に追いやってしまったことが、私にもたくさんあります。たとえ猛毒であっても一歩先んずることができれば薬効がないわけではありませんので、その機会を失わないようにしてください。

私が京師にいた時、藤井の上總の大掾の妻が、産後の水腫を患っておりました。私が診てみるとまさに大陥胸湯の症です。これを与えようとしましたが衆医が拒んだため用いることができず、終に死んでしまいました。大葬にした時、心下に浮石のようなものが二つ焼き残っていました。これがすなわち塊です。私と門人三四人で診たときにも、心下に塊物が二つありました。主人はこれを見てひどく歎いたということです。



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