傷寒学派





傷寒学派は、《傷寒論》の学説を研究する医学流派です。張仲景の《傷寒論》の研究は唐代に始まり宋代に盛んになりましたが、その学派が形成されたのは明代に方有執(ほうゆうしつ)〔訳注:1522年~?〕が《傷寒論》に「錯簡」があると唱えたことから始まります。彼は、張仲景の原文が、早い時期に錯簡されて乱されていると考えました。そうして彼は「衛は風に中(あた)り、寒は営を傷る。これは営衛ともに風寒に傷られ中っているのである。」と説き、太陽病篇の本来の姿を回復させました。

この後、喩嘉言(ゆかげん)〔訳注:喩昌:1585年~1664年〕・程郊倩(ていこうせい)〔訳注:1622年~1723年〕等は彼に唱和したため、「錯簡論」という流派を形成することになりました。この流派の医家は皆な、王叔和・成無己を攻撃することになります。









しかし清代の中葉に至るとこれに反して、《傷寒論》は首尾一貫した書物であり、錯簡などはなかったとし、王叔和(おうしゅくか)〔訳注:3世紀:《傷寒雑病論》の撰者:《脉経》の著者〕や成無己(せいむき)〔訳注:11・12世紀:《注解傷寒論》を作成〕の二人を《傷寒論》を整理し注解した第一人者であり、立派な功績ある医家であると尊崇し賞賛する人々が現われました。これは銭溏の張卿子〔訳注:1589年?~1668年〕・張志聰〔訳注:1610年~1674年?〕の師弟、それに長楽の陳念祖〔訳注:1753年~1823年〕がその代表的な人物となります。彼らは、旧論を擁護する最も有力な流派を形成しています。

この外に数人の医家は、《傷寒論》を弁証論治の大経・大法を打ち立てた基本的な書物であると考えました。ですから、《傷寒論》が張仲景の原著であるかどうか、王叔和の改竄を経たものであるかを論ずることなく、ただ弁証論治の運用に有効であるかどうかということを問題としたわけです。つまり、現存する《傷寒論》に錯簡があるか原著のままであるかという問題は、《傷寒論》を研究していく上での主要な問題ではないと考えたわけです。この流派は「弁証学派」と呼ばれましたが、彼らは弁証論治の考え方を研究していただけなので、完全に同じ考え方をしていたわけではありません。このうち、処方と証に基づいて立論していた流派は、柯韻伯(かいんはく)〔訳注:1662年~1735年〕・徐大椿(じょたいちん)〔訳注:1693年~1771年〕に代表されます。また、治療方法に基づいて立論していた流派は、銭虚白・尤在涇(ゆうざいけい)〔訳注:?~1749年〕に代表されます。また、六経審治に基づいて立論していた流派は、陳念祖・包興言に代表されます。さらに、経絡分経に基づいて証を論じていた流派は、汪(王虎)に代表されます。

このように、傷寒学派は数百年にわたる衰えることのない百家争鳴を経ることによって、その説をそれぞれ純化させたため、ついに経によって処方を論ずる流派における中堅的な位置を占めることになりました。









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