温熱学派





温熱学派は、劉河間の学説から派生し、明代を経て、清代に至って徐々に成長してきました。この学派の発展過程は大きく三段階に分けられます。









劉完素は《素問・熱論》に基づいて、『寒に傷られればすなわち熱を病む』『熱病はただ熱と把えて治療すべきであり、寒と把えても治療することはできない。』と提唱していました。その後、馬完素・(金留)洪・常徳らの医家はこの説を発展させ、熱病においては『陰陽によって表裏を分つのであり、陰陽を寒熱のこととすることはできない。』と語り、さらに寒涼薬が発表攻裏において優れていることを力説しています。これによって熱病の治療法における劉河間の学派の考え方は広く行なわれることとなり、ついには『外感に関しては張仲景を宗〔訳注:元祖〕とし、熱病に際しては劉河間を用いる』という言葉までできたのでした。このようにして温熱病は徐々に《傷寒論》の範疇から分離して、ひとつの学説としての端緒を形成していきました。ここにおいて劉完素は、温熱学派の基礎を定めた人物と認められたわけです。これが第一段階です。









明代末期になると、山東・浙江・南北直隷において、温熱病が疫病として極めて広い地域に蔓延しました。これに対して諸医家は傷寒の法則にしたがって治療しようとしましたが、効果をあげることができませんでした。そのような状況の中、江蘇省の震沢の人である呉有性〔訳注:1580年代~1660年代〕は、独自の弁証によってそれを温疫として把えかえし、傷寒としてではなく疫病として治療を施すことによって、大きな効果をあげました。

彼はこの成功に基づいて、瘟疫病に罹患するということについてさらに、入り口・罹患する場所・伝変法則などについての詳しい研究をすすめ、よい効果をあげた方法と合わせて、《瘟疫論》という書物を作成しました。その中で彼は、疫病というものは天地の癘気であり、口鼻から入り、これに深く罹患した場合はすぐに死ぬことがあるとし、また浅く罹患しただけの場合は、営衛の運行を邪気が阻むため、郁滞して発熱すると論じています。さらにその治療においては、疏利〔訳注:下法などを用いて営衛の気を通じさせること〕と分消〔訳注:邪がある場所を弁別してその邪を中和させること〕を基本的な法則として、挙斑湯・三消飲・達原飲などの名方を作成して用いました。

呉氏に継いで立ったのは、上元の人である戴天章です。彼は《瘟疫論》を基礎として、さらに詳細に弁証していきました。中でも、気・色・脉・舌苔・神識の方面の弁別に長じており、汗・下・清・和・補の五種類の方法を用いて治療していました。

清代の乾隆帝の時代〔訳注:1736年~1795年〕に、ふたたび温疫が流行しました。常州の余霖〔訳注:余師愚〕は、温疫の原因は運気における淫熱であり、内に胃に入り、十二経に伝わって病となったものであると考え、石膏の重剤を用いて諸経の表裏の火を瀉すべきであると提唱しました。彼が処方した清瘟敗毒飲は現在でも有名な方剤です。温熱病が流行性の病であるということは、温熱学派の第一段階の時点では明確にされていませんでしたが、この第二段階になってはじめて明らかにされました。









清代の中葉以降、医家たちは温熱病の治療方法について心を尽してきました。その論は、葉天士〔訳注:1667年~1746年〕と薜生白〔訳注:薜雪:1681年~1770年〕の言葉に托され、呉の地方から始まりました。この、世に伝えられている《温熱論治》は、初めに唐大烈の《呉医匯講》(ごいかいこう)の中で活字によって伝えられました。その原序によると、『葉天士の弟子の願景文は、葉天士の侍者として洞庭山に遊び、その舟の中で葉天士が説いたことを記した。その文はまだ整理されずにいたが、今ここに、その字句の意味が通じるよう、綴りを整理して掲載した。』云々とあります。続いて華岫雲(かしゅううん)は、《臨証指南医案》の冒頭にこの篇を掲載し、《温熱論》と名づけています。この両者には多少異同がありますけれども、だいたい同じ文章になっており、ともに、『温邪は上から感受し、まずはじめに肺を犯し、心包に逆伝する』という言葉を基本的な法則としています。

またいわゆる《湿熱條弁》は、舒松摩の《医師秘籍》〔訳注:1809年刊〕の冒頭に掲載されています。この文章はおよそ35条からなり、薜生白の作と言われていますが、その真偽はわかりません。しかしこの文章は、湿熱病について比較的系統的に研究されているもので、実践的な意義の非常に高い文献です。

章虚谷は《傷寒論本旨》を作成し、張仲景は伏気温熱については論じているけれども、外感にまでは論及してはいないと語り、《温熱論》はそういった張仲景の欠落部分を補うものであると断じています。さらに、暑邪が火や湿と化合して募原に舎るということは、かの葉天士でさえもまだ論及していないが、《湿熱條弁》では非常に詳細に述べられていると語っています。

ついで、王孟英〔訳注:1808年~1867年?〕が現われました。彼は《素問》《温熱論治》《湿熱條弁》のすべてを取り上げ、さらに陳平伯・余師愚などの諸家の論をも集成して、《温熱経緯》を著わし、これらの説に対して詳細な注釈と弁論を加えています。

さらに、淮陰の呉(王唐)は《温熱論》を基礎として、そこにさらに自身の心得を結合し、《温病条弁》を作成しました。その中では三焦弁治を用いることが説かれています。そしてこの書こそが、江南地方における温熱病治療の集大成とも言えるものとなっています。

この第三段階に至って、はじめて温熱病の学問は成熟した段階に到達したと言えます。









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