査序



天地の道は陰と陽とを言うに過ぎない。この二気が互いに影響し あい万物を発育させているのである。

人はもともと一物であり、 皆なこの二気によって生まれこれによって形を成している。この 世に災害や疫癘が蔓延しないことはなく、またさらに物情に感じ 物欲に攻められるので、それが疾病や久病をおこすもとになった ため、往々にして夭逝する者が出現し、これを救うことができな かった。

古の聖人はこのゆえに立ち、このような民を憂い、健順 を調える方法と、剛柔を斟酌する方法と、暑・寒・燥・湿の治療 理論を明確に分けて著わして経となし今に至る。

《霊枢》《素問》 の諸篇を読むと、いまだかつて民衆がその生命を護らないことを 嘆かない聖人はいなかったことが判る。また漢史の方技伝を見る と、倉公や扁鵲などの流派が疾病を治療するための神奇なる方法 を多く伝えているとされているが、その方法は著わされてはいな い。また、仲景・立齊・丹渓・東垣が輩出し、よくその精微を採 り成書として後世に伝えている。

それらの諸家は互いに踵を接し それぞれ祖伝があり同じ道を異なった歩き方で行くようなもので あるが、また矛盾をなす部分も多かった。高識の士は、このよう な茫漠として把え処のない状態を見て、これを一つにまとめよう としたが、ついに困難であった。






越人の張景岳は、若い頃より経世の才があり、晩年には医を専門 にし、諸家の論旨を決して六十有四巻として著わし、この道の集 大成としたのである。

その甥の林汝暉はこれを携えて国外に出、 魯謙庵方伯と出会い、ここに始めてこの書が刊行されることとな った。医を語る家で、この書を奉じ法として守らないものはなか った。後にその版木は浸失するが、南都運賈青がこれを復刊した。 しかし彼はこれを私蔵して北に帰ったため、広く刊行されること がなかった。

私の一族である子礼南は広東の論客であり、その才 は時に鳴り渡り、また古の烈士の気概を持つ者である。彼はこの 書の広く行き渡らないことを慨き、その同志諸君に先駆けて毅然 として金を集め、これを出版者に与えて版木を彫り始めた。

私が 典試を奉命したとき、運よく礼南は私に従い、その書を出して私 に見せ、序を書くことを私に依頼したのである。この書は八陣に 分けられ、陣を諸科に並べ、科の次に方があり、方に諸治を記し、 その意味が簡明であり、その法が的確であり、その効用は正に神 のごとく感じられた。

この書は百氏の正論であり、満虚の理数を 究め順逆の経権を分析し、さらに大いなる《易》をも相参したも のである。陰陽の道はここに備わっている。学ぶ者がその体と用 とを得、宜しきに従って処置を施すならば、群衆を利済し夭逝の 患をなくすることができるであろう。

また現在の聖天子の方々は 仁寿に至り、太和を保合し、その至沢の涵濡は天下をして皆な寿 域に登らしめるものである。さらにこの書を得てその術を広めこ れを全国で行なえば、聖人と仁民が天地の生物の心を化すに至り、 世を深く補益することができる。

これが広く用いられれば、礼南 他の諸君は善行をなしたことを喜び、またこの全集とともに不朽 の伝を与えられるであろう。






癸巳〔訳注:1773年か〕
科広東典試正主考 翰林院編修
  査嗣(端-立+頁) 撰






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