《景岳全書》について



張景岳は、名を介賓、号を通一子、字を会卿といい、処方に熟地黄をよく用いたことから張熟地とも呼ばれています。明代の末期、西暦一五六三年〔注:嘉靖四二年〕現在の浙江省紹興県〔注:当時の浙江省会稽県:古代の越〕に生まれ、明が完全に滅び去る直前の西暦一六四〇年〔注:崇禎十三年〕に七十八才で亡くなりました。

彼の先祖は、もともとは中国内陸部の四川省綿竹県の出身だったのですが、明代の初期に軍功を立てたため食禄として千戸を与えられ、代々紹興衛〔注:紹興守備隊〕の指揮者として会稽県の県城の東に居住したので、会稽の人とされたのでした。この頃の県城とは、いわば都市部と村落部との接点にあたり、この県という単位が国家機構の最末端の拠点でした。

景岳は代々この会稽県の紹興府にある県城の守備隊の隊長として紹興府の東外れに住んでいたということになります。この生地は、揚子江下流の南京や上海よりも南にあたります。ここは浙江の下流の湿潤地帯で、北の杭州、東の寧波(ニンポー)に挟まれた湾岸にあたるわけで す。






彼の父寿峰は定西侯の客人だったので、幼い頃から非常に聡明だった十三才の景岳を明の首都だった北京〔注:燕京・京城とも呼ばれる。景岳全書の第一巻には、燕京の名が出てくる〕に連れていき、その門下の人々と交流させました。

景岳はそこで、定西侯の門下に集う異能奇才の士達と深く交流を結んだのでした。また景岳はこの時、医術が巧みで有名だった金夢石〔注:金英〕について学び、その秘伝をあますことなく授けられたと伝えられています。《会稽県誌》

このころの北京はどのような都市だったかということが当時の記録にあります。

「京師〔注:北京〕の住宅はぎっしりたてつまり、もはや余地とてなかった。市場のあたりには糞や汚物が多く、全国から集まった人間が、かしましく雑居していた。また蝿や蚊が多く、炎暑の節にはほとんど安息できなかった。少し長雨になると、すぐ水がつく。ためにおこり、下痢、疫痢が堪えなかった。」《生活の世界歴史2》

「北京には次の人間がとくに多い。宦官の数は官吏より多く、婦女は男子より多い。また娼妓は良家の子女より多く、乞食は商人より多い。街の通りには風ぼこり、車馬のたてる土埃がまう。それに奸悪の徒や盗人が群がり、悪質の仲買人が出没するなど、これらはすべて人の世のよからぬ風俗、あるいは不良の輩であるが、京師にはみないる。」《生活の世界歴史2》






そもそも明代末期は、皇帝は政治を厭って遊興にふけり、それを支えてはびこった宦官が賄賂政治を行い、都市の大衆は士大夫に至るまでも世紀末的快楽主義に溺れ、大多数を占める農民はその放埓(ほうらつ)を支えるための重税にあえいで相次いで反乱を起こすなど、まさに世紀末の状況を呈していました。

このように大帝国、明国の国家としての力が弱まるにつれて、景岳の生誕地である浙江省を始めとして広東・福建などを中心とした海岸地帯を、海賊や和寇が荒らしまわることになります。国家が一手に握っていた対外貿易に対抗して密貿易をおおっぴらに行なうようになったわけです。

このような状況の中、心ある士大夫たちは浙江省の北隣り揚子江の下流にあたる江蘇省無錫県に東林書院を設け、学問を講じるかたわら宦官等による暴政を批判し始めました。一六〇四年、景岳四十一才のことです。

さらに明の次の大帝国である清国を築きあげたヌルハチは、一五八八年、明国に従属していた満州族をまとめあげ、北から明国を圧迫していました。

「兵を談じ剣を説けば壮士もその顔色を失うほど」《景岳全書・第一巻》であった景岳が、じっと郷里に落ち着いていられるはずもなく、すでに壮年となっていたにもかかわらず彼はついに軍人として、北京の北西部〔注:河北省・遼寧省〕で満州族と戦うことになります。しかし、満州族の力は非常に強く、また宦官の暴政によって明側軍人の士気もあがらなかったため、結局武功を収めることはできませんでした。

景岳は結局、神宗が崩御した年、一六一九年に失意の内に郷里の紹興に帰り医学に専念することになります。時に景岳、五十八才でした。






このような波乱に満ちた人生の中で、彼はすでに三十二才から《類経》をまとめ始め、三十年の歳月をかけて一六二四年に完成させ発刊しています。またその晩年にはこの《景岳全書》を書き上げています。〔伴注:ただし発刊されたのは景岳が亡くなってから六十年後の一七〇〇年です。〕






明末清初の大儒である黄宗羲〔注:一六一〇年~一六九五年〕は,やはり浙江省余姚県に生まれていますが、彼は一六七一年に張景岳伝を著わしています。

その中で彼は、「二十年来〔注:一六五一年~一六七一年:つまり景岳の死後十年ほど経た後で《景岳全書》が刊行される前〕医家の書で世に盛んに行われているものは、張景岳の《類経》と趙養葵の《医貫》である。しかしこの《医貫》 はただ一知半解の書であるのに対して、《類経》は岐黄〔注:岐伯・黄帝〕の学を明らかにし、王冰の未だ語り尽していない部分を語っている。まさに士大夫たるものが歳月を惜しむことなく学ぶことによって始めてこれに通ずることができるといった類の書である。」と早くも語っています。

また「景岳は非常に博学で、医学の他に、象数〔注:古代の宇宙論〕・星緯〔注:天文学〕・堪輿〔注:風水の術〕・律呂〔注:音楽〕については、ことにその蘊奥を極めていた。」とあります。






確かに景岳は、戦いのさなか御者の歌声を聞いて「何という悪声であろう。五年以内にこの遼寧省は亡びるだろう」と語り、実際その通りになりましたし、郷里に帰る時も、「私は夜乾象〔注:天からの予知夢〕を見た。それは、皇帝の車が晩に担ぎ出される夢だった。天下はまた乱れていくに違いない」と感じとっていますが、まさにその時、当時の皇帝神宗が崩御していたのでした。

彼、景岳は自分が死ぬ時にもそれを予知していたらしく、自ら肖像画を書き、三人の子供を呼び、そのことを知らせました。その時一人の門人が、「先生は死ぬのですか!私の先生は不死のはずです!」と訴えましたが、景岳は莞爾と微笑んで逝ったということです。この時、七八才でした。

明国が亡んで清の世となったのはこの五年後、一六四五年のことです。世は流賊が跋扈(ばっこ)し、飢民が反乱を起こし、宮中には腐敗堕落した宦官が賄賂政治をおこなうという、まさに世紀末的混乱のさなかでした。






本訳文は、1994年に出版社からの依頼を受けて翻訳し、書物となったものです。が、あまりに専門性が高いためにさほど売れず、出版社が販売を中止してしまったため、翻訳の方も、張景岳の基本思想である医易部分、傷寒に関する部分、それに脉診に関する部分の三巻分のみという、いわば、中核思想に留まり、実際の臨床についてはおよんでおりません。

しかし、張景岳という、現代中医学においても心ある学者であればその研究を志す人物の、基本的な思想に触れたい方には、とっておきの贈物になるであろうことを確信しております。






2001年10月吉日


訳者   伴 尚志  謹識






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