張景岳の時代



そもそも景岳が生きた明代末期とはどのような時代だったのでし ょうか。歴史家はこの時代を明末清初と名づけて中国史の巨大な 転換点として把えています。それは、上から見れば元の時代とい う異民族支配から脱却し、ふたたび漢民族による統一王国を形成 した明国、中華思想と儒教道徳に基づく強大な王国であった明国 が、内側から腐敗し瓦解していく時でした。その強大な中央集権 的な権力が弱まっていったため、中央からの締め付けが弱くなり、 社会不安が増大し、徐々に庶民の生活は困窮の度を深めていった 時代でもありました。






この時代を士大夫階級の視点から把えると、科挙の施行によって 朱子学が広く学ばれ、文字を読むことができる知識人が増加した 時代であると言えます。

そのため明代には、風俗長編小説である 《金瓶梅》、抵抗文学としての《水滸伝》などが書かれ広く読ま れることになりました。ことに《金瓶梅》は、山東の片田舎に住 んで薬屋を営むやくざの主人公が、官吏に賄賂を贈ってコネを求 め、悪の限りを尽して巨富を築き、女色に耽って多くの妾をおき、 人妻と姦通するなど、ただれた放蕩生活をおくった後死に、やが て一家は離散するという筋書きです。そこには倫理的な主張とい ったものは一切なく、逆に人間生活の恥部とされるものに対して 反って人間の真実を認め、大胆な筆致で描かれたものです。この 書は明代末期のデカダニズム、善とされてきたものを偽善と見、 恥とされてきたものを人間の至福としてその本能を肯定するとい った、非常に自由な風潮に合致したものでした。

この時代精神を 率直に謳歌した人物に李卓吾〔注:一五二七年~一六〇二年〕が います。彼は陽明学の学徒であり、奔放な主観主義に徹して生き ていました。その思想の中で彼は、童心の説を提唱し、無心な童 子のように天性の流露のみが最高の善であり、それを妨げるもの は悪として否定しました。そしてその観点から、旧来の儒教や歴 史を大胆に批判していました。






また農村の人々の立場から言えば、租税が物納から銀納に替えら れ、徭役も実際の労働ではなく銀納で行われるようになりました。 さらにはこれが一本化されて、それまで一定の戸数に応じてかけ られていた税金が、州や県を単位として毎年かけられるようにな りました。このため、役人は賄賂を受け取り易くなり、賄賂をわ たす世事に長けた人物が重用されることになりました。これらの ことから、民衆が流動化し・商人が台頭して権力を持ち・貧富の 差が非常に拡大してきました。






官吏の面から言えば、明代の初期には禁止されていた銀の流 通が公式に認められることとなったため、賄賂もこれによって渡 し易くなり、政治の腐敗へとつながっていきました。

明清の代に は科挙に合格した国家公務員である官僚〔注:官〕と、土着の徒 弟関係によって世襲され実際の行政や司法を執り行う官僚〔注: 吏〕とがありました。

地方の吏はその上級の吏に付け届けをし、 それらはさらに中央本省勤務の吏に贈られるというように、吏の 組織自体が全国的なつながりを持った組織となっていました。

景岳が生まれた浙江省紹興の吏は全国的にも最も力がある吏として 有名で、「紹興爺」と呼ばれ、彼らは政府の中枢である六部を牛 耳り、特に財政の戸部十三司を掌握していました。

そのため、明末の有名な 学者である陳竜正は、「天下の治乱は六部にかかっているが、そ の六部の胥吏(しょり)はすべて紹興人である。されば紹興こそ は天下の治乱の根本である」と語っているほどです。






また紹興は、陽明学の中心地として明代の末期まで盛んに陽明学 が講じられた中心地です。

王陽明は浙江省余姚県に一四七二年に 生まれています。景岳とは九一才違いということになります。

王 陽明は、それまで官吏を登用するための試験である「科挙」の、 受験用学問と堕していた朱子学を、実用的な学問として再び解釈 しなおした偉大な哲学者です。

陽明心学は自己の心の良知にした がって行動を起こすということから、孟子の思想と同じように革 命的な性格を持っていたので、国家正統の学問としては認められ ず、王陽明は学問的には寂しく世を去りました。

しかし彼は情がありかつ優 秀な官吏として世人に大いに受け入れられていました。

陽明がこ の紹興に住みつき、その名も陽明書院を開いて講学に努めたのは、 彼が五十才~五六才になるまでのわずか六年間でしたが、彼の門 弟は六十数名に上り、禁じられている学問ではあっても非常な力 を明代の末期すなわち張景岳が亡くなるまでは維持していたので した。






さて、このように、清流の中心とも言える陽明学の流れと、宦官と並ぶ濁流の中心とも言える紹興吏閥を抱え、さらには海賊が跋扈(ばっこ)している町、それが紹興でした。

その紹興府を擁する浙江省は、 もともとはあの呉越同舟という言葉で有名な越の国にあたり、非 常に古い歴史をもっています。

明代において浙江省は西の江西省 ・北の江蘇省と並んで科挙の合格者をもっとも多く生んだ場所で す。元の時代に、もとの宋と金との国境であった淮水〔注:黄河 の南側揚子江の北側にある中国第三の大河〕を境としてその北側 に住む人々を「北人」南側に住む人々を「南人」と呼びました。

この北人と南人とではその習俗が非常に異なっていったようです。

宋代の本《紺珠集》には、「東南の人は軽薄で重みがなく、また 食べ物に奢って、ただ生をむさぼっている。士夫たちは、卑怯で 弱く、剛直さがない。そのゆえに力で押さえつけると服従する。 いっぽう西北の人は、毅然として愚直に近く、粗食に甘んじ命を 軽んじる。その士夫は重厚で慧い。そのゆえに圧力には屈しない。」 とあり、明代の学者はこれに加えて、「この数語は南北の気風を 十分に尽しており、今でもそんなに変わっていない。」と述べて います。また別に、「南人は読書を喜び、西北の諸侯は危急に馳 せ参ずる気概を自負する」という分析もあります。

中国民族が立てた大型国家である漢と明のうち、漢は北人の政権であり明は南人の政権です。

北人は気概はあっても学問を好まなかったため、科挙に合格するものは南人の方が多く、ことに景岳の誕生した浙江省と、後に東林党という、宦官によっ て疲弊していた明国を清浄化し立て直そうという運動がおこった 所であるその北の江蘇省には、科挙の合格者がもっとも多く存在しています。

このことはとりもなおさず、この南人が、学問を好み、浙江省と江蘇省こそが明代の学問の中心地であったということを証明するものであると言えましょう。






明代末期名実共に浙江省が学問の中心地となった理由は、杭州が 南宋の時代に首都に選ばれたからです。

また浙江省は非常に豊か な穀倉地帯で、十二三世紀には「両江みのれば天下足る」〔注: 江蘇省南部と浙江省北部が豊作であれば、その生産高だけで天下 の食料事情が解決する〕と言われているほどでした。

この浙江省 の中でも、景岳の時代の紹興府は、寧波府とともに大量の進士 〔注:科挙試験合格者〕を輩出していました。一五八七年版の紹 興府史には、

「地元学生の数は南宋時代以来ずっと増加してきて いた。現今では極貧の者ですら、息子に古 典を教えなかったら恥ずかしく思うだろう。商人から地方政府の 走り使いに至るまで、読み書きができない者はごく僅かしかいな い。

我々地元民は一般に傲慢で、官僚と庶 民との区別はかなり不鮮明である。やっと生活していくだけの金 を手に入れると、他人を社会的上位者と認めたがらない。裕福で 権勢ある人に喜んで敬意を払うこともない。

〔注:この土地には〕金満家もいないかわりに、貧困者もいない。

近隣各地と比べれば、この土地は常に文化 に重きを置いてきた。学生たちが文学に熟達していたり、文学会 を設立したりするのはかなりありふれたことなのである。

最近、 人々は王陽明に影響されて哲学にも興味を持ってきた。文学でも 哲学的な議論でも、かなりの業績が出てきた。」《科挙と近世 中国社会》とあります。

さらに《科挙と近世中国社会》ではこ れに続けて、

「我々の知らない多くの要因が他にあったかもしれ ないが、土地の慣習・特性のこうした記述は、紹興が王陽明の前 後に〔伴注:住民の身分の〕移動率が高い地域であった、という 周知の事実を確証している。

確かに、直感的知識と人間に固有の 平等に対する信仰にその全重点を置いた王陽明は、いかにも紹興 らしい環境の所産であり、逆に今度は、彼がその環境に深い影響 を及ぼした、といえるのかも知れない。

十六世紀を通じて、紹興 府は学問的成功で全国の指導的地位を保持したが、一六〇〇年を 過ぎるまで、この地位は蘇州に引き継がれなかったのである。」

とあります。






このような紹興府の会稽県で、景岳の家はどのような位置だった のでしょうか。

先に述べましたように、景岳の家は古く明の建国 の時に軍功をあげたために、山に囲まれて代々暮らしていた四川 省の奥地から会稽県に移り住んできました。

海外に向かって大き く門戸を開いている大都会である浙江省紹興府の守備隊長として やってきた家族は、二百年にわたって今度はその会稽城の傍らに 住み続けたのでした。日本的感覚からいくと名家の家柄ではない かと思いがちですが、当時の中国人は大抵そのような家系図を持 っていましたので、格別の名家というわけではなく、一般的な知 識人階級という風に判断する方が適当のようです。

景岳の家はそ の地の守備隊長として代々その職を世襲していたということから 考えると、紹興府の吏員として、かの有名な「紹興爺」の一員だ ったのではないかという可能性が残ります。

しかし景岳が医学を 志し、エリートすなわち高級官僚への道を歩まなかったということから察すると、当 時の紹興府の風潮としては極めて異端に属する家となったと言わ なければなりません。なにせこの明代の末期の官吏の力は、地方 官吏といえども非常に強く、「貧民は富者を敵に回してはならず、 富者は官吏を敵にまわしてはならぬ。」という諺が一般的常識と して言い習わされていたほどだったのですから。






明代の軍人は、主として北部の国境地帯を防衛するという国防上 の重要性から厳格な世襲性をひいていまして、その軍籍を維持す るために数々の法令が発布されていました。明国はその建国当初、 軍政上の目的のために北部国境および内陸部に四百前後の守備隊 を設けました。

景岳の家はこのうちのひとつである紹興の守備隊 の隊長の家として代々続いていたわけです。その部下の隊員は法 律上は五千六百人いたということになっています。

世襲性の軍籍 の家族の中から軍隊に徴兵された隊員は、平時には国から全員が 土地を割り当てられ、国家からの借地人として食料を自給してい ました。この軍籍を譲渡することは禁じられていましたが、建国 後まもなく、そのような方法で軍隊を維持することが困難になっ てきました。

その第一の理由は、軍の将校が兵士を下僕や小作人 や肉体労働者として利己的目的のために不当に使役し、彼らの収 入の一部ないし全部を着服するといったことが横行したためです。

第二の理由は、武官となったものは、軍用の糧食と物資の一部を 自分たちの間で互いに着服することによって利益を得ることができたのに対して、一般の多くの兵士は種々の卑しい仕事をして得た収入がなけ れば生活できなかったためです。

第三の理由は、武官が兵士を補 充する際の軍籍の地方割り当てを悪用して私腹を肥やしたためで す。これはどういうことかというと、兵士を補充する際、軍籍に 属さない一般の庶民から徴兵を行い、水増しされた兵士を食い物 にし、またその兵士に割り当てられている糧食や軍需品を武官が 横領していたということです。そのための贈収賄や恐喝事件まで起こり、 兵士の脱走があたりまえのこととして横行してしまいました。

また軍籍の ある人々もこのように腐敗堕落した徴兵から逃れるために、秘密 裏に身分を変更するようになっていきました。

このように壊滅的な状態であって も脱走者の実態が把握されたことはほとんどありませんでした。 その理由は、脱走兵に支給される糧食や軍需品を、脱走がばれない 間は着服することが武官にはできたからです。

その上、明代の初期には、罪人によって兵卒の数を増加させるということまでしたため、兵士たちはその身分自体が社会的な汚名となってしまいま した。法令に縛られていて一般庶民と比べると全く自由がないだけでなく、 不断に搾取と虐待を受けていたため、十五世紀の前半までには彼 らはもっとも抑圧された社会集団となってしまい、普通の庶民から もしばしば軽蔑されることになりました。

明代の著述家たちには、「社会集団の うちで、軍籍にある人民ほど、その役務に苦しみ、しきりにその 身分を逃れようとしたものはいない。」とまで述べられています。

こ のような状態だったので、景岳の生まれた頃〔注:一六世紀中葉〕 の資料によると、沿岸地域の実際の守備隊総数は、遼東で法定割 り当て人数の僅か三二パーセント・山東で五七パーセント・浙江 で二二パーセント・福建で四四パーセント・広東で二三パーセン トにまで落ち込んでいました。《科挙と近世中国社会》

二百年の長きにわたった家が、景岳の晩年には金銭的に困窮した ということも考えあわせると、景岳の家は非常に良心的な支配 者、守備隊長であったということが伺えます。袖の下をとらなか ったために経済的に困窮したのでしょうから。






しかしそれにしても、若い頃から非常に優秀な人物として定評の あった景岳に科挙を受験した形跡がないということは、とても不 思議な感じがします。

この当時は能力のあるものはもちろんのこ と能力のないものまで、その生活のために全力を傾けて官吏にな ろうとしていた時代なのです。そのような時代に科挙を受験せず 医学を志した景岳は、いわば世間常識とかけ離れた生活をしてい たと考えられるわけです。そこから考えると、景岳の家の医学復興への意思が、いかに固かったのかということを伺い知ること ができます。

彼が父親に北京に連れて行かれ、金英という医師に 医者としてのすべてを授けられたのが十三歳の時ですから、それ からこの三十二歳までずっと、医者の仕事を景岳はし続けていた のでしょうか。医者をしていく中で、明国を憂い、北方を夷狄が 脅かしているということからそれの討伐に志願し、何回も戦に出 かけたけれどもとうとう軍功をあげることができず、父が老い家 が貧しくなっていく姿を忍びがたく、軍人として身を立てること をきっぱり諦めて景岳は郷里に帰りました。

そしてその血気には やる思いを静め、門人を指導しながら、彼はこの《景岳全書》を 書き上げていったのです。






このように景岳の暮らしていた紹興は、身分的な差別が非常に少 なく自負心に富み、学問的気風の非常に高い地域でした。またそ こに住む民衆も、中国北部では満州族との戦いが熾烈に行われ、 全国的にも農民反乱の徴が現われてきていたとはいえ、貧富の差 も少なく安定した生活を成し得た地域だったと言えるでしょう。

進取の気風があり人口密度が中国一高かったそのような場所で、 暑さと戦いながら景岳は、医者として生活していました。

その 彼が三十年をかけて書き上げた《類経》は、彼の生前に出版されて います。遠く内陸の西安において葉秉敬はこの書を、「海内の奇 書」と称えています。

先に述べましたようにこの《類経》は医家 の間に広く受け入れられ、かの明代最高の歴史家であり偉大な思 想家である黄宗羲をして、「《類経》は岐黄の学を明らかにし、 王冰の未だ語り尽していない部分を語っている。まさに士大夫た るものが歳月を惜しむことなく学ぶことによって始めてこれに通 ずることができるであろう。」と語らせるほどのものでした。

し かし、黄宗羲亡き後に出た《景岳全書》は絶賛される場合もある 反面、景岳信奉者による浅薄な解釈によって温補中心の治療が行 われた結果、非常に悪質な誤治を生ずることになり、それへの批 判が起こりました。

次頁からの文章は、《景岳全書》成都中医学院編集:人民衛生出版社版の校正後記として、趙立(員力) 氏が書かれたものより訳出しました。







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