張景岳は、名を介賓、字を会卿、別に通一子と号す。明の嘉靖四 十二年【原注:一五六三年】に生まれ、崇禎十三年【原注:一六 四〇年】に亡くなっている。享年七十八才であった。
彼の先祖は もともとは四川省の綿竹県の籍だったが、先代が明代の初期に軍 功をあげたため、紹興衛を任され、その指揮官を世襲することに なった。
そのため『家を郡の城である会稽【原注:今の浙江省紹 興市】の東に築き』そこに居を定めた。ここに会稽の人となった のである。
景岳は幼い頃から非常に明敏で、学問を好み読書を喜び、『休むことなく章句を読み続けた』。
父の張寿峰は時の定西候である蒋建元の門客だったので、景岳が十三四才の時にこれを従えて京師〔訳注:北京〕に遊び、広く奇才異士の人々と交流させた。賢者は人に恵まれるものであるが、彼は京師の名医であった金英【原注:夢石】から医術を習い、『尽くその伝を得』、さらに同時にその父の教えに従って《内経》を研究した。
これによって彼の医 学への造詣は非常に深くなり、並みの人間には及びもつかないほど高度な医療技術を身につけたのだった。『人の病を治療しようとする場合、深くその病原を考えていけば、単方による重剤で、はっきりとした治療効果をあげることができる』。
彼はこのように医学的な知識を自身のものにした以外にも
景岳は壮年となってから従軍し、辺境の要塞を疾駆し、
彼は、心中に大いなる抱負『慨然として狼胥に封じ燕然に勒すの想い』〔訳注:満州族に征服されるくらいならば、この河北の地で討ち死にしようという想い〕を持っていた。しかし彼は『俯首して合を求める』〔訳注:自説を曲げて合意点を求める〕ことや『落落として偶し難い』〔訳注:互いに相容れないために割り切り難い〕ことに対して首肯することができなかったため、その壮大な懐いを伸ばすことができず、その志を結果に結びつけることができなかった。
そしてついに、五十八才の時、景岳はその名を立てることを諦め、悲しみのうちに郷里に帰ったのであった。
郷里に帰ると彼は、『壷の中に世を避け』て膨大な学識を医学一本に絞り込み、心を奮い立たせて最後まで著述に邁進した。
彼、景岳がその三十年間の精根を傾けて一六二四年【原注:明の天啓四年】六十二才の時に出版にこぎつけることができたものが、《類経》三十二巻三百九十篇および《類経図翼》十一巻《類経附翼》四巻である。ここにおいて《内経》は全面的系統的に分類・編集され、さらに多くの独創的な見解が盛り込まれることによって、極めて豊富な学術的価値を有する専門書が出来上がったのである。
当時の葉秉敬は、『この書は、《内経》における疑問点を弁じ、隠微な内容を発揮している。またその缺を補い、その
また薜生白もこれを讃え、その《医経原旨》の序で『景岳の才能は非常に広大でありその学識は非常に広く、その胆志もすこぶる堅い。』と触れて、この景岳の説を多く採用している。
《類経》の編纂が終わると、さらに彼はその余生を奮い立たせ、 畢生の学識経験を傾けて、《景岳全書》六十四巻、百万余言を撰 した。この大著は、張景岳の晩年に至ってから完成されたもので あるため、彼の平生の学術経験が全面的に総括されて集中的に集 められており、理論面においても実践面においても非常に高度な 価値を有している。
この他の彼の著述に《質疑録》一巻四十五編 がある。この書は、主として前人の一定の見解に対して異なる観 点を提示し、また景岳自身がその早期に論じた文章について修訂 ・補充したものである。温補学説について、その一歩を進め発揮 したものであると言うことができるだろう。
このような張景岳の一生における医学活動を総合的に見るなら、 彼の学術理論や臨床実践が全て非常に輝かしい成功を収めている ということには、議論の余地がない。
しかしこの彼の成功は一朝 一夕でなされたものなのではなく、彼景岳が非常に広大な範囲の 資料を採集し、採集した資料の学問的方法を継承し、豊富な実践 と共に勇猛な創造性を発揮してこの学問を収めようとしたことの 結果なのである。このことは、彼の博学多識と密接にして分かつ ことのできない部分である。
景岳によるこのような学術的成果は、 中医学の内容を豊富にし、その発展を推進したものであり、中医 の学術上非常に重要な位置を占めるものとなった。そのため彼の 学術は、歴代の少なからざる医家と学者によって、誉め讃えられ ている。
清代の范時崇は語っている、『彼の天分は非常に高く、 古を師として非常に詳細な部分まで現代に蘇らせ、ここに百家を 融合し、諸家の説を会通させた。』と。また、鄧鉄濤は景岳の医 学に対する貢献を高く評価して、『同時代の薬学家である李時珍 にも劣ることがない。』と語っている。
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