《景岳全書》の版本



この《景岳全書》を編集してほどなくして景岳は帰らぬ人となっ た。そしてその四年後、明もまた亡んだのである。この大著を出 版するほどの財力もなく、それに帝国滅亡という世事の乱れが重 なり、数十年の間この書は刊行されないままであった。

景岳の外 孫である林実蔚が《全書紀略》で語っているところによると、 『この書が編纂された晩年は、彼には上梓させる力がすでになく、 父に授けた。父はそれを再び私、実蔚に授けた。』とある。

黄宗 羲の《南雷文定・張景岳伝》には、『惜しむらくはその書は晩年 に編纂されたものであったため、しばらく家に蔵されていた。』 とある。

これらの文章はともに、本書が成立した後、すぐに上梓 させることはできず、遺稿として景岳の婿から外孫の手中に代々 保管されてきたということを示している。






《景岳全書》がはじめて上梓された時期を現有の資料から考察す ると、清代の康煕三十九年庚辰【原注:一七〇〇年】であるとい うことが確実な線である。

時の広東布政使を任じられ、景岳と同 郡出身であった魯超【原注:謙庵】が広州に任官していた時に中 心となって刊行したものが、本書の最初の版である。これがすな わち魯刻本である。

《全書紀略》に『私は先人の意志を継ぐこと ができるほどのものではない』とあるように、林実蔚自身の財力 と名声では本書を出版するには不十分であり、先祖の遺言を自力 で成就することは困難であったということが吐露されている。そ のため『庚辰の歳に私はこの書を携えて広東に走り、伯魯公にこ れを告げた。・・・そして公はその俸給を提供し、この書 を版木にすることとなったのである。これを公に見せてから数ヶ 月後に彫り終えることができた。』のである。このようにしてよ うやく『先人を慰謝することができ、外祖父も九原において心を 安らかにしていることであろう。我が外祖父・張景岳が不朽であ らんことを祈る』と語ることができたのである。

魯の序にもまた、 『林汝暉【原注:すなわち林実蔚】の姪の倩が広東に来たため、 やっとこの書と巡り合うことができた。・・・ここに翻刻 し、もって諸世に公にせん。作者の苦心を裏切ることなく、長桑 の禁方と同様これをここに授けるものである。』とある。

賈棠の 序にも、『実蔚はこの書を携えて南遊し、初めて方伯魯公に賞賛 され、その財産の寄付によって上梓するに至った。』とある。

范 時崇の序には、『この書は謙庵魯方伯が広東を任されていたとき に刊行したものである。』とある。また査嗣(王栗)の序にも『そ の甥の林汝暉はこれを携えて国外に出、魯謙庵方伯と出会い、こ こに始めてこの書が刊行されることとなった。』とある。

これら の記載を残している人々は、あるいは景岳の親と同郷であったり して、景岳との距離が隔たっていない人々なので、その言辞は信 ずるに足るものであると考えられる。






以上の発言の中でも、非常に重要な箇所が二ヶ所ある。

その一つは『庚辰の歳』である。こ の年号を我々が初めて上梓されたと推測した時期〔訳注:一七〇 〇年〕から六十年遡ると、明の崇禎十三年にあたるが、この年は 景岳が世を去った年であり、本書中に『財産に限りがあり』と書 かれているところから考えると、この時期にはまだ刊行されてい なかったと判断しなければならない。これより六十年下った時が 清の康煕三十九年〔訳注:一七〇〇年〕ということになるのであ る。

二つめは魯超という人物とその時代である。《広東通史》巻 二五六宦貴録によると、『魯超、謙庵と号す、天籍に順えば、浙 の会稽の人である。康煕・・・三十七年、広東の布政使となる。』 とある。さらに《清代職官年表》の布政使の条文には、康煕三十 七年に、魯超は張績に継いで広東の布政使に任ぜられ、康煕四十 年に菫毓秀が継いで任官されて始めてその職を去った、と明確に 記されている。これらの文献の記載を根拠とすると、康煕三十九 年に方伯魯超が中心となって《景岳全書》を上梓したという時期 と事実とが明確になり、全ての記載が符合する。






黄氏の《南雷文定》の中に『この書の出版は遅かったが、今まさ に世に行われている。』とあり、また張石頑が康煕癸酉から乙亥 〔訳注:三十二年~三十四年〕にかけて編纂した《張氏医通》に はすでに《景岳全書》の内容が引用されており、さらには魯氏の 序文の中にも、『この書が海内に膾炙(かいしゃ)してからは已に久しいが、 私は一目も見ることができず残念に思っていた。』等とあること から考えると、魯刻本が出るより以前に、何らかの形で《景岳全 書》全体か、部分的な内容が公開され流行していたという可能性 がある。

しかしそれは非常に限られた範囲内でのことで、江蘇省 呉県の人である張石頑はそれを見ることができたのに対して、魯 謙庵は嶺南広東の地にいたため、この書の存在を伝え聞くことは あっても手に取って見ることはできなかったということになる。

このことは、もし《景岳全書》が刊行されていたとしても、それ が正式なものではなかったということを示している。

この度我々 がこの校正作業を始めるにあたって、本書の版本のありかについ ていろいろな角度から研究し探索したが、魯刻本以前の版本を発 見することはできなかった。






《景岳全書》の第二版は、康煕四十九年庚寅【原注:一七一〇年】、 両広〔訳注:広西省と広東省〕の転運士である賈棠が広州に任官 していた時に刊行された。

賈の序によると、魯刻本が出版された 後、『版木ができ北に去り・・・終には非常な珍本となっ た。』、『しかし惜しむらくはその流伝が広くない。そこでここ に私財をなげうち本書を国内で刊行することとした。』とある。

また范時崇の序によると、『転運士の賈君は・・・済世の 情が深く、梨棗に頻回にわたって登った。私は庚寅の孟冬、天子 の命を奉じて彼とともにこの道に就いたが、その事業が終了する まで見ることはできなかった。しかしその二ヶ月後、賈君は《景 岳全書》の重刻ができたということを私に知らせ、私に序を書く ように依頼された。』とあり、賈序にはその時を『康煕五十年 歳次辛卯孟春』と著している。

このことから、庚寅の年には、 底本はできあがっていたということが判る。この時に上梓された 本は、当然原書の稿本に基づいているのだが、魯刻本と照らし合 わせてみると新たに付け加えられて翻刻されている部分もあるの で、これを《景岳全書》の賈刻本としている。






《景岳全書》の第三版は、康煕五十二年癸巳【原注:一七一三年】、 賈本を基にして組織的に多数の人々の手によって重訂され査礼南 によって上梓された。

査嗣(王栗)【原注:癸巳科広東天試正主考、 翰林院編修】の序によると、魯超が始めて本書を上梓したが、 『後にその版木は浸失するが、南都運賈青がこれを復刊した。し かし彼はこれを私蔵して北に帰ったため、広く刊行されることが なかった。私の一族である子礼南は広東の論客であり、・・・この書の広く行き渡らないことを嘆き、その同士諸君に先駆 けて毅然として金を集め、これを出版者に与えて版木を彫り始め た。』とある。

査礼南によるこの時の重刻は、賈本に基づき簡単 な校訂を加えて翻刻しているので、これを《景岳全書》の査本と している。






以上三回にわたる本書の刊行は、すべて広州において行われてい る。

この広州という土地は南北の交通の要衝であるため商業地帯 として繁栄しており、多数の商人が集まり各界の名士達も頻繁に 往来していた。そしてその時代は清の康煕帝の代であって、国力 が非常に充実して時期であった。

《景岳全書》はこのような時代 と場所に恵まれ、広範に行き渡るようになったのである。






その後も長期にわたって翻刻が繰り返され、その数も四十四種の 多くに上るが、全てここにあげた三種類の版本を基にして翻刻さ れたものであったり、ここにあげたものと同じ版木で出版された ものである。

したがって、《景岳全書》には大きく分けて三種類 の版本の系統があるということになる。このうち、魯本の系統の ものは、最初に魯超の序文と林実蔚の《全書紀略》が掲載されて おり、各巻の最後には『会稽魯超謙庵訂』と標記されている。

賈 本の系統のものは、最初に范の序文・賈の序文と《全書紀略》が 掲載されており魯の序文はなく、各巻の最後には『瀛海賈棠青南 訂』と標記されている。

またこの二種類の刊本にはともに『本衙 蔵板』と署されている。

査本の系統のものは、最初に査の序文・范の序文・賈の序文と《全書紀略》が掲載されており魯の序文は なく、《重訂景岳全書姓氏》が附されおり、また各巻の最後には 重訂者の籍・貫〔訳注:代々住んでいる土地〕・姓氏が標記され ている。

これら三種類の刊本を子細に比較対照してみると、賈刻 本の版のものが大体において文字も美しく、錯訛も比較的少なく、 印刷も鮮明である。

そのため我々は『本衙蔵板』の翻印がある 『光徳堂蔵板』印のものを今回の校勘整理における底本とし、魯 本系統の学海樓刻本を第一主校本として、それに会稽衙影板印本 を参照することにした。






なお査刻本は一九五八年上海衛生出版社【原注:今の上海科技出 版社】から、岳峙樓蔵板が影印出版され、その後も数回にわたっ て版を重ねている。これは今、系統的に分類した版本の影印本で ある。

そのためこれを本《景岳全書》の第二主校本とし、清の乾 隆年間に翻刻された査系統の本を参考としている。






他にはまた民国十五年〔訳注:一九二五年〕上海公益書局から、 葉天士評の署名のあるものが出版された。【原注:すなわち姚球 の《景岳全書発揮》】。これは古の呉の江忍庵の改訂による石印 本である。これも本書の一連の版本の一つの類型であるが、これ も参考本として用いている。

本書の特徴は、主として葉天士によ る批評が関連原文の下に挿入され優れた批評がなされている部分 があるということだけであり、それ以外については他の書とかわ りばえのないものである。






《景岳全書》が世に問われて後、査礼南の翻刻の時に『重訂』し たとあるが、賈本と比較した結果、なんら精密な校訂はなされて はおらず、旧来の賈本にあった訛誤をそのまま踏襲しているばか りか、新たな訛誤を増加させている結果となっていることが判明 している。

またその後に流通した各種の本は、先に述べた三種類 の系統の本の翻刻あるいは翻印であるため、その訛誤はそのまま 踏襲されている。

江忍庵による校訂本は、原書の文字に対して憶 断によって改訂がなされているため、さらに遺漏や錯乱が発生し ている部分がある。

であるから今回我々が行なった校勘整理の作 業は、事実上本書が始めて流伝してから今までの三百年間で、第 一回目の、全面的かつ系統的な整理であると言えよう。

そのため 我々は、本書に詳細な点校を加えた外、文章の句点を附す位置を 是正し、音韻についても酌宜して、本書の原貌を回復することに 努めた。これも原義に忠実に行なうことによって、古人を軽んじ ずまた後学を迷わせることのないよう配慮したつもりである。







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