《経穴密語集》






《経穴密語集》は、江戸時代中期の学者、岡本一抱によってものされたものです。もと、《奇経八脉詳解》と題されていましたが、これでは売れにくいというので、本屋さんの指示で改題したということです。岡本一抱についての紹介は一番下の段に掲載してあります。東亜医学会より拝借しました。

《経穴密語集》に関する岡本一抱子の著述姿勢はその凡例においてみられます。奇経八脉について歴史的に考察していく上で、この書物はもっとも重要なものの一つとなるでしょう。

本書中の、督脉と任脉の項目において、詳しくは《臓腑経絡詳解》を参照されたしということが述べられておりましたので、それを参照して、督脉と任脉の絵図を加えてあります。

また、随所に、李時珍の説と自説とを区別するために冒頭に○を付してあると述べられているのですが、○の付していない部分においても自説を述べていると見られる部分が多数あり、紛らわしいので、○を省きました。李時珍の説を、そのまま自説として一抱子は当時の言葉で述べていますので、理解に困難が生ずることはないでしょう。

文中で、「郄」という文字を用いています。郄穴という意味で「血気が深くたまっている場所に名づけられているもの」と一抱子が陽蹻脉のところで解釈しています。

原文についている注には、【原注:】を用い、訳者が付した注には〔伴注:〕を用いました。

原文には多くのふりがながふってありまして、興味深い読みが数多くあります。その中でも、全体の理解に有用なものを選んでふりがなとしてふってあります。これによって文章の理解がより深まると思います。




《経穴密語集》 凡例



1、世の中には経絡や兪穴に関する書物は非常に多く出まわっております。しかし、それらは皆な十二経絡の道を述べているだけで、奇経八脉の問題については極められておりません。《内経》や《難経》や《甲乙経》などの諸書においては、奇経の流れや度数、八脉の主病が論じられておりますが、諸篇に散見されており総括されてはいません。

陽維は諸陽を(つな)ぎ、陰維は諸陰を(つな)ぎ、督脉は背部で諸陽を()べ、任脉は腹部で陰経を養い、衝脉は上下全身に衝通して十二経の海となり、陰陽の両蹻は左右陰陽の主となり、帯脉は諸経を束ねて乱さないようにしているものです。ということは、奇経は十二経の綱紀であるわけです。

いやしくも八脉を理解していなければ、経絡の真旨を得ることは不可能です。そのため、《素問》《霊枢》《難経》《甲乙経》および王叔和・張仲景等の諸書を参照して奇経八脉詳解を作成することとしました。

1、李時珍に《奇経八脉考》という書物があり、その理論を尽しております。ゆえにこれを採用してその文を著し、それに従って奇経の流れを明らかにしていきます。

1、奇経八脉の主治については、それぞれの条文に述べてあります。贅言かとも思われますが、病者に臨んで探す際にすぐに見つけられないことをおそれるがゆえに、巻末に主治の要穴を集めて附しております。

凡例 終




岡本一抱



一抱は通称為竹、一得斎と号す。本姓は杉森氏。承応三年(一六五四)越前国福井において杉森信義の三男として出生(生年、出生地は異説が多い)。実兄は江戸文学を代表する近松門左衛門である。一抱は十六歳頃、織田長頼の侍医平井自安の養子になり、平井要安と称した。十八歳で後世家別派の味岡三伯に入門し、医学を学ぶ。三伯の師は饗庭東庵で、後世家別派を樹立した人である。

すなわち、一抱の学系は、曲直瀬道三-同玄朔-饗庭東庵‐味岡三伯につながる。すなわち、饗庭東庵の医学は道三、玄朔の李朱医学よりさかのぼり、劉完素の医学に根底をおいたものである。

三十二歳頃、師味岡三伯から如何なる理由によるのか破門され、また三十五歳頃には養家からも去ったのか岡本姓を名乗るようになる。それからまもなく法橋に叙せられている。没年は享保元年(一七一六)で、京都本圀寺に葬られた。戦時中の木谷蓬吟氏の調査では同寺に墓碣が存在していたが、戦後整理されたのか、不明になってしまった。子孫は京都に健在である。

一抱は近世医人中最大のブックメーカーであった。「自ら選述して彫刻せしむるの書一百二十余巻、録して末だ刊せざるの書若干也」と述べているように、著書は優に等身を凌駕する。好んで古医書の注釈を試み、諺解書が多い。あるとき兄の近松が一抱に「お前は無学のものが読んでもわかるような諺解を著わしているが、このようなことでは原典を読まずに諺解ばかりを読む医者が多くなり、人命を誤るおそれがあるから、やめたほうがよい」と忠告した。一抱は大いに悟るところがあって、これより以後、諺解を作ることをしなかったという。

代表的な著書は『和語本草綱目』『方意弁義』『医方大成論諺解』『三蔵弁解』『切要指南』などがある。

一抱の医学の根底は劉完素等の高遠難解なものだったが、彼が達し得た境地はこれを脱却して甚だ簡素淡明なものである。その著書をみると、湯液、鍼灸の二道に通暁した学術兼備の名医であり、また『北条時頼伝』を著した史学者でもあった。



(参考・矢数圭堂『岡本一抱』、土井順一『岡本一抱子年譜』)

東亜医学会、「日本の漢方を築いた人々」より。









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