たとえば趙献可は、『易に太極があるということを人々が理解できないことを周氏は恐れ、太極図を制作しました。・・・(中略)・・・人は天地の中に生まれ、もともと太極の形をしています。人の身体を考えていく上で、もしその形を考えに入れないのであれば、その蘊奥を究めることはできないでしょう。』《医貫・内経十二官論》と述べています。孫一奎もまた両腎間の動気を人身の太極・造化の枢紐とみなし、五行はこれによって生じ五臓はこれに継いで形成されると考え、これに基づいて生命現象の本原を探求しようとしました。張景岳も同様に、命門を人身の太極と把え、太極は両儀を生じるがゆえに、命門は水火をともに具えていると考えました。これに基づいて、命門は人体における陰陽消長の枢紐・生命形成の始めであると把えたわけです。「坎」の卦の説明と《太極図説》とを命門学説と結合させたこのような考え方は、明代における程朱の理学と密接な関係にあります。このことは、中国における古代哲学と医学理論とが相互に影響しあっていたことを示しているものです。
「一陽が二陰の中に陥入している」という説の下、孫一奎は命門を腎間の動気と呼び、趙献可は両腎間の君火と考え、張景岳は腎の精室と名づけました。これらの諸家の命門についての論はみな、腎は陰精を蔵するということに立脚していますが、これは、命門が相火であるという一般的な偏った認識とは異なっています。彼らはこのような論を立てることを通じて、一つには、苦寒瀉火の薬物を乱用することを避け命門の陽気を保護することを提唱し、また一つには、命門を温補するには温熱辛燥を用いて腎臓の陰精を傷ることのないよう、警告を与えるものとなりました。このことは李時珍の言うところの、『命門の気と腎気とは相互に通じ合い、精血を蔵して燥を悪みます。もし腎と命門とが燥くことがなければ、精気は内に充実するので、飲食の状態は健全となり、皮膚に艶が出、腸腑も潤い、血脉が通じます。』《本草綱目・巻三十》という言葉と通じるものです。明代の命門学説の臨床的な意義が、ここに表現されています。
主要参考文献
『中医学術史』
上海中医学出版社刊320P
2001年 3月4日 日曜 BY 六妖會