1、営衛の気とは何か






営衛は後天の気の変化したもの



◇営衛はともに後天の気の変化したものであるということは、以下の原典から明らかです。

『営は水穀の精気』『衛は水穀の悍気』《素問:痿論》


黄帝が聞かれました。穀物の気に五味があり、それが五臓に入るということはどのようなことなのか聞かせてください。

伯高が答えました。胃は五臓六腑の海です。水穀はすべて胃に入ります。五臓六腑はみな胃から気を受けます。五味はそれぞれその喜ぶところに走ります。穀味の酸は先ず肝に走り、穀味の苦は先ず心に走り、穀味の甘はまず脾に走り、穀味の辛は先ず肺に走り、穀味の鹹は先ず腎に走ります。穀気や津液は流れて営衛の大通りを行き、糟粕に化されて順々に下に伝わります。

黄帝が聞かれました。営衛の流れとはどのようなものなのでしょうか?

伯高は答えました。谷ははじめに胃に入ります。その精微は先ず胃から出て両焦に行き、五臓を灌漑し、分かれて二行になって出ます。これが営衛の道です。

大気に集まって流れないものは胸中に積まれ、気海と名づけられます。肺を出、咽喉をめぐりますので、吐けば出、吸えば入ります。
』《霊枢:五味》


『営気の道は谷を納めることを宝とします。谷が胃に入ると、これを肺に伝え、中を流溢し、外に布散し、精専なるものは経隧(けいすい)を行きます。常にめぐって止むことなく、終わってまた始まります。これを天地の紀といいます。』《霊枢:営気》


『人は気を穀から受けます。穀は胃に入り、肺に伝わり、五臓六腑すべてが気を受けることとなります。』《霊枢:営衛生会》


『経に、人は気を穀から受けます。穀が胃に入ると五臓六腑に伝与され、五臓六腑が皆な気を受けます、とあります。』《難経:三十難》


いわば、後天の気である穀物の気を陰陽に分けて、営という陰、衛という陽として表現したものが営衛であるということです。


穀物の気はどこから営衛になるのか



それでは、営衛は、穀物が直接変化したものなのかというと、そこには、一枚違うものをが介在されています。

『穀は胃に入り、肺に伝わり、五臓六腑すべてが気を受けることとなります。』《霊枢:営衛生会》。つまり、華蓋としての肺を介在させているわけです。同じような記載は《霊枢・営気》にもあります。


では、穀物の気はどこから営衛になっているのでしょうか。

穀物の気が胃から肺に伝わり、五臓六腑を灌漑した後にはじめて、穀物の気は営衛に別れるということが、《霊枢・五味》には書かれています。

『谷ははじめに胃に入ります。その精微は先ず胃から出て両焦に行き、五臓を灌漑し、分かれて二行になって出ます。これが営衛の道です。大気が集まって流れないものは胸中に積まれます。これを名づけて気海といいます。肺に出、咽喉をめぐりますので、吐けば出、吸えば入ります。』

これは明代の馬玄台の注釈でさらに明確になります。

『これは、谷が精微の気に化したものを営気と衛気と語っているものです。大気は三焦を主りますが、気は出ることが多く入ることが少ないものです。そのため、谷を服用し続けなければなりません。胃は穀気を納め、脾はすなわちこれを化します。その精微の気はまず中焦に出、昇って上焦に行き、肺から五臓六腑に流れることによって、五臓を灌漑します。その降るものは、中焦から下焦に行き、営気を生じます。その昇るものは下焦から上焦に至り、衛気を生じます。二つに別れ出て営衛の道を行きます。その大気に集まって循らないものは、上焦に積まれ、気海と名づけられます。』

「谷」とあるのは飲食物のこと。「大気」とあるのは胸中のことで、「気海」というのは上気海すなわち気会膻中を中心とした場処の事をいいます。







もしこの営衛の生成の順路という考え方が正しければ、人間という気一元の生命の一部しか営衛という言葉では表現されていないということになります。営衛以外に、肺に昇る気、臓腑を灌漑する気の通路が存在するということになるためです。

それではこの、営衛以外の通路のことを古人はどのように考えていたのでしょうか?


《霊枢・経脉》には、『酒を飲むと、衛気が先ず皮膚に行き、先に絡脉を充たします。絡脉が先に盛んになり、衛気のバランスが取れ、営気が満ちて経脉が大いに盛んになります。』《霊枢・経脉》というふうに、胃と衛気との直接的なつながりについて書かれています。

考えてみると穀物が入って消化できるような状態の身体は、何もない空虚な物体ではありません。すでにそこには生命が充満しているものです。

《霊枢・五味》の記述方法は発生の順番に記載されています。書き方としてはこうなるけれども、実は衛気が水穀の精微を媒介して、衛気を通じて肺に水穀の精微が上り、肺の華蓋としての宣散作用によってやはり衛気を通じて全身に水穀の精微がいきわたる。そのような流れの中で五臓が灌漑されていくのであると古人は考えていたのでしょう。

いわば、充満する蒸霧によって樹の幹が濡らされているような感じで、飲食の精微が五臓六腑を灌漑し、その洗礼を経た飲食の精微を、静と動の観点で陰陽的に眺めなおして営衛と名付けているわけです。







2005年 4月22日 金曜   BY 伴 尚志


一元流
難経研究室 営衛論 次ページ