〈大気論〉






大気論《医門法律》喩嘉言(1585年~1664年)1658年刊


喩嘉言は、清初の名医で多くの書物があります。その中でもこの《大気論》と《絡脈論》は、非常に独創的なもので、歴代の理論を参考にして後代への道を開いた名文です。ただ、独創的なだけに危険性もあるので、よく吟味しながら批判的に読む必要があります。






大気とは何か



天は気を積んでいるだけであり、地は形を積んでいるだけであり、人気はそれらによって形を成しているだけです。気が形を成すということを考えてみると、気が集まれば形が出来上がり、気が散ずれば形も亡びます。気の形に対する関わりは非常に大きいものであると言わなければなりません。

身体には、営気があり、衛気があり、宗気があり、臓腑の気があり、経絡の気があり、それぞれに区別があります。これら、営衛・臓腑・経絡を統摂して全身をくまなく満たし、一時も休むことなく還流し、全身の節々に至るまで活き活きと生命力溢れる状態にするものは、すべて胸中の大気によります。

大気については《内経》に『黄帝が聞かれました。地が下にあるのはどうしてなのでしょうか?岐伯が答えて言いました。地は人の下にあり、太虚の「中」〔伴注:中心の意〕となります。黄帝が聞かれました。どうやって?岐伯が答えて言いました。大気がこれを持ち上げているのです。』と端的に述べられています。つまり、太虚の楼閣はその隅々まで気が充満しているため、地の積形は包まれ持ち上げられて、四隅に付着することがないのです。

寒・暑・燥・湿・風・火の気はその後に六種ともども地中に入り、その化を生じます。もし大気が地を包み込むことができなければ、大地が揺れ崩落し陥没してしまうことは言うまでもありません。どうして大いなる「中」が永くその化を生ぜしめる〔伴注:大地が化物を生ぜしめ、生命が地上に繁茂し続ける〕ことができるでしょうか?

人の身体もまた同じことです。五臓六腑や大小の経絡の、昼夜分かたず休むことのない循環は、胸中の大気がその間を循環しているために起こるものです。もし大気が衰えれば、出入が衰え、昇降が弱まり、神機が衰亡するため、気がたちまち孤立して危険な状態になります。このような状態のものはどうすればよいのでしょうか?

《金匱要略》にもまた『営衛の調和が取れていれば、その気はきちんと流れます。大気を一転させると、その気は散じます。』という言葉が残されています。営衛の調和が取れていなければ、気は渋り流れにくくなります。ですから先に営衛の調和をとり、気が十分流れるようにしてから、胸中の大気を一転させると、長期にわたる病によって蓄積された淀んだ気を、はじめて散ずることができるというわけです。

であれば、この大気がどのように病理と関係しているかということについて後世あまり述べられてこなかったということは、問題ではないでしょうか?




膻中の気や宗気との違い



あるいは、大気はすなわち膻中の気であると言われます。そのため膻中は心主が政令を宣布する臣使の官であるというわけです。けれどもこれを天の運行にてらして考えると、膻中の臣使というのはただ、寒・暑・燥・湿・風・火の六気の機能に過ぎません。けれども「太虚の中」とは、繊細微妙な名状すべからざる空洞のようなものです。地の形を包み持ち上げて、永久にその中に奉奠していてはじめて大気といえます。膻中はすでに臣使の官であり、その地位が定まっているわけですから、これを大気とするべきではありません。

あるいは、大気はすなわち宗気の別名であると言われます。宗とは、尊ぶことであり、元祖のことです。十二経脉はこれを奉り尊主とします。けれども宗気とは、気を営気と衛気とともに三道に分けたうちの一つです。すでに道という言葉があるわけですからこれは、地中に入った六種類の気と同じものです。かの付着するところのない空洞〔訳注:すなわち大気〕と比較することもできません。




診処と治法



膻中は心包絡で診ます。宗気は左乳下で診ます。もともと大気の診方とは異なります。それでは大気はどこでこれを診ればいいのでしょうか?実は《内経》には明瞭に述べられているこのことを、人々はこれまで理解できなかったのです!

『上の附上、右外で肺を候い、内で胸中を候います』とあるものがそれです。肺は全身の気を主り、治節が行われます。胸中は肺気を包んで持ち上げている場所です。このため、右寸を分けて診、気の天部を主るとしているわけです!

《金匱要略》だけはこのあたりのことに触れ、胸痺・心痛・短気をすべてひとくくりとして取り上げてその内容を解説しています。『気分で、心下が堅く、大きな盆のようで、周辺が杯を伏せたようなものは、水飲によるものです。』として、長期にわたる水飲が胸中にたまって散じなくなり、その絪縕の気を傷ったことを形容しています。また、『心下が堅く、大きな盆のよう』であると、大気が遮蔽されて通りにくくなり、周辺が丸く杯を伏せたような状態のものは、まさしく持ち上げられている空洞が水飲に占められているということを述べているものです。

そこで、桂枝去芍薬加麻黄附子〔訳注:すなわち大気一転と名付けられている処方〕を用いて胸中の陽気を通じさせます。陽は開くことを主り、陽が盛んであれば開いて塞ぐことがありません。水飲の陰もすっきりすることでしょう。

また、胸痺や心痛を治療する処方にはその君薬として薤白や白酒を用いていますが、これも陽を通じさせるという意味があります。

もし胸中の陽が虚していない場合は、その有余を取り去ればよいわけで、それには枳朮湯を用いればよいわけです!枳実と白朮とを半分づつ用いるだけで、その有余を取り去ることができるのです。このことを理解すれば、胸中の病を治療するということが、よくわかります。







人身においては、『神の臓は五、形の臓は四、合わせて九臓です』〔注:形の臓は四の中身について王冰は、『一つは頭角、二つは耳目、三つは口歯、四つめは胸中です』と注しています。〕と、胸中が一角を占めています。胸中は神を蔵してはいませんけれども、反って五神の主となります。

孟子〔注:もうし:紀元前372年?~紀元前289年〕はよく浩然の気を養い、子思〔注:しし:紀元前483年頃~紀元前402年頃〕の歌声は金石を出すような〔注:透き通った〕声でした、その天のすべてを得、人の損を受けなかったのはどうしてなのでしょうか。

現代の人の多くはその気を乱暴に損なって、気を養うということを考えないため、病となります。これをさらに理気することでその気をさらに損なうことになります。たとえば《本草》には。『枳殻は胸中の至高の気を損ないます』と明言されているではありませんか。どうして好きな勝手なことをしてこれを忌む〔訳注:避ける〕ことをしないのでしょうか?

すべては胸中が生死の第一の関鍵であることを理解していないためにおこることです。そこで、特に「呼吸を弁ず」に補足して、この大気論を明らかにしました。







2005年 4月24日 日曜   BY 伴 尚志


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