《難経》をどう読むか



扁鵲の時代で述べましたように、陰陽論と五行論とを関連付けて考察した始めの人物としての鄒衍すうえんは、春秋時代に存在した扁鵲以降300年ほどを経た時代に生きていました。

《難経》という書物を考えていく上でこのことをどのように考えていくべきでしょうか。よく知られているように《難経》は、陰陽論と五行論とが複雑に入り組んだものとして当然のように解釈されています。そして、《難経》の本文の中にも、五行論を思わせる部分、五行の相生相剋とか十干十二支等を思わせる言葉も出てきます。ことに十干十二支は、前漢後期から流行しはじめた讖緯しんい学説〔注:《易》〈繋辞伝〉の中の河図洛書と天人感応説を基礎とした、未来予知に関する学説〕との関連も考慮に入れるべきではないかとさえ思えます。この事態をどう考えればいいのでしょうか。





一つは、《難経》が実際に書かれた時代の思想が、扁鵲という伝説の名医の名の下に挿入されたと考えることができます。もしこのように考えるのであれば、《難経》の中の挟雑物として五行論的な部分は切り離して《難経》を解釈していく必要があるでしょう。

もう一つは、実は陰陽論と五行論とを統一して考え始めたのは鄒衍が始めなのではなく、扁鵲が始めなのであるとする考え方です。もしこのように考えるのであれば、扁鵲の思想が諸子百家にもっと取り入れられていなければならないでしょうが、より研究が進んでいると思われる諸子百家の研究成果は、鄒衍が始めであろうということを、今のところは示しています。

さらにもう一つは、扁鵲そのものの考えを探る必要は実はないのではないか、という考え方です。《難経》というよりも古典一般に言えることですが、古典は古典単体としてだけ価値があるのではなく、それを解釈しつづけた中国および周辺諸国の知識人たちの、分厚い積み重ねにこそ大いなる伝統としての価値を認めることができるのです。もしこのように考えるのであれば、《難経》を「解釈した」人々の時代背景とか、その時代に広がっていた思想を研究するほうが、実はより重要なことなのではないかということになります。

つまり、《難経鉄鑑》の勉強をするのですから、《難経》を解釈するという作業よりも、《難経鉄鑑》が書かれた江戸時代の思想を大切にして、そこから著者の考え方を類推し、学んでいくことが重要である、ということになります。





この三種類の《難経》へのアプローチは、実はただ選択の問題であって、どれが上でどれが下ということはないと私は考えます。

ということで、私は、ここでは第三の説を採用したいと思います。江戸時代、孝経を基盤として日本風に根付いてきた朱子学を中心として、国家の学問が構成された時代。そのさらに江戸時代的な発展として、気一元の生命観を基にして《難経》を解釈しようとした新しい試みを、《難経鉄鑑》を通じて学びとっていこうと考えているためです。





またさらには、人間の生命を一元の気として把握するこの方法論こそが、21世紀の医学として鍼灸医学が立ち行く基本となるものであると、私が考えているためでもあります。





2000年 3月5日 日曜   BY 六妖會


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