第二十四難解釈



難経二四難は、全体として《霊枢・経脉》の記載とおおむね符合しています。その異同については例によって徐霊胎の《難経経釈》に詳しく記載されておりますけれども、《難経鉄鑑》のリアルな解釈と比すると、まったく顔色を失ってしまいますので、省略することにします。

張志聰は《霊枢・経脉》に対する注の中でこの全体を総括し、『ここでは三陰三陽の気の終わりについて論じています。皮脉肉筋骨は、臓腑の外に応じたものです。臓腑とは雌雄が内に合したものです。陰陽の六気は、臓腑の五行を本として生じています。気が先ず外に死に、その後に臓腑が内に絶します』と述べています。この流れの順序は大切なところであると思います。

二四難ではまず、五臓に属する経脉の気の絶した状態について述べられています。そして、絶している経脉の気と相剋の時間帯に人は衰え死去するということが、五行の相剋理論を用いて解説されています。

支那大陸の歴代の医家たちはこれを生暖かい眼差しでみているのか、字句の解釈だけで済ませております。しかし、我が《難経鉄鑑》はこれを深く掘り下げ、生活実感に近づけて解釈しようとしています。まさに、五行理論の自在な運用がここに現れているというべきで、五行の相生相剋理論を嫌っている私も、唸らされるものばかりであります。まさに出色のできばえですので、よくお読みいただきたいと思います。







さて、五行理論の芸術的な運用ばかりでなく、広岡蘇仙は、この難にみられる陰陽関係にもその炯眼を及ぼしています。すなわち

『三陰の気がともに絶するものは、目眩から転じて目暝するようになります。目暝するということは、志を失うということであると考えます。志を失うということは、志が先に死んだ状態です。志が死んだときには目暝します。』

『六陽の気がともに絶する場合は、陰と陽とが互いに離れます。陰と陽とが互いに離れると、腠理が漏れて絶汗が出ます、その汗は貫珠のような大きさで転々と出て流れません、気が先に死んでいる状態です。旦に占すると夕には死に、夕に占すると旦には死にます。』という《難経》の原文に対する解釈。

『陰については志と言い、陽については気と言っていて、気の精粋を志と名づけていることから考えると、気が神を生じていることになるのではないかと私は思います。神は内を守っているものなので陰に属し、気は全身の充ちているものなので陽に属します。また神は目に集まり、五志は眸子〔訳注:黒目〕に動じています。気は皮腠に集まり、四肢を運動させることを中心としています。志は陰に属して陽の用となりますので尊く、気は陽に属して陰の用となりますので卑しいのです。古人は、志は師とし、気は卒徒〔訳注:下僕〕とすると語っていますが、意味深い言葉であると思います。』

という言葉です。非常に深みのある言葉で、さまざまな側面に応用がききます。まさに難経解釈を通して人間解釈を行うという深みにおいて、一つの悟りを開いたものであると、私は思います。







2004年 11月 7日 日曜   BY 伴 尚志




一元流
難経研究室 前ページ 次ページ 文字鏡のお部屋へ