第 二十七 難

第二十七難




二十七難に曰く。脉には、奇経八脉というものがあり、十二経脉に拘わらないというのは何なのでしょうか。


十二経脉は、地に十二水があることに法り、直流として滔々と流れています。これに対して奇経八脉は、地に八水があることに象り、満々と水を湛えています。奇経八脉の流れが平常の流れとは異なるためこれを「奇」と名づけています。奇経と正経といった違いはありますが、並行して循環しており逆することはありません。これは八水と十二水とが同じ流れであるようなものです。






然なり。陽維・陰維・陽蹻・陰蹻・衝・督・任・帯の脉があります。


陽維・陰維の二脉は、陽の地・陰の地それぞれに溝湖があることに例えられます。「維」脉は、その水を維絡し延長させることによって、洪水を受けとめ泛濫しないようにします。陽蹻・陰蹻の二脉は、陰陽の険地〔訳注:険しい土地〕に基づいており、湍水〔訳注:急流逆巻く流れ〕が非常に速く流れることに例えられます。ですからこの脉を名づける際にもこの蹻疾の意味をとっています、「蹻」とは非常に速く歩くということです。衝脉は散地〔訳注:無用の土地〕のようなもので、阡陌〔訳注:あぜ道〕を衝通させることによってその水を散行させます。督脉は陽の地を直行する大きな湖であり、水の督長〔訳注:長として監督するもの〕です。任脉は陰の地を直行する大きな湖であり、その任大〔訳注:任務は重大〕です。督脉・任脉・蹻脉の三脉は、正経のように直流していますので、脉度の数に入れられています。帯脉は環水が帯のように周流しているもので、諸水と互いに通じています。人体の中枢に位置し、天府の地〔訳注:肥沃な土地〕であると言えます。任脉・督脉は縦の中心にあり、帯脉は横の中心にあり、腹背で十字の形となります。また維脉は縦に廻り、帯脉は横に環り、縦横に通行しているので泛濫の心配がなくなるわけです。


問いて曰く。古人に、任脉・督脉を南北とし、両蹻脉を東西とし、維脉を上下とし、帯脉を六合としているものがありますが、これはどのような意味なのでしょうか。

答えて曰く。それは、四維上下を八脉に配合したものです。この本文では、湖沢を八脉に例えて論じています。その配合を論ずることは末節の論でしかありません。






この八脉は皆な経脉に拘わりません。ですから奇経八脉と言います。


奇経は直流〔訳注:の正経脉〕に拘わりません。ただ横泛の虞〔訳注:氾濫への備え〕をしているだけです。






経脉に十二種類あり、絡に十五種類あり、この二十七種類の気が、互いに従いあって上下しています。奇経だけがどうして正経に拘わらないのでしょうか。


もう一度、経絡は全身を周流しているだけなのにどうして奇経八脉をその範疇の外に置くのかということについて聞いています。






然なり。聖人は溝渠を図り設けて、水道を利し、不然の時に備えました。天から雨が降下して、溝渠が溢れ満ち、この時に当って霶霈は妄りに作ります。こうなると聖人といえども復び図ることはできなくなります。


江河〔訳注:揚子江や黄河〕を疏決し〔訳注:切り拓き〕四海〔訳注:周囲の海〕を壑〔訳注:池や沼〕として利用するということは、聖者でなければとても関与することもできないことです。ですから先ず聖人をここで称えています。「図」とは計画するという意味です。「不然」とは然らざる時ということですので、不慮の時という意味です。「霶霈」は雨水が暴溢している状態を表わしています。人で言えば、飲食を食べ過ぎると、精気が上蒸して雲雨のようになって、三焦に溢満しますが、このような時に水気が氾濫するわけです。この氾濫して溢れた水気全てを正経で受けとめることはできないので、奇経に溢れ入って正経を通利させるわけです。このような不慮の事態の時にもし奇経がなければ、臓腑経絡は全て汚れた池のようになってしまいます。いかなる聖智であっても、霶霈が妄行する時期には、溝渠に拘わって計画通りに水利を通じさせることはできませんから、ただ自然に湖沢に流入していくだけなのです。溝渠と深湖とはともに奇経八脉の例えとして述べられています。溝渠を正経に例えていると語る人もいますが間違いです。






このようにして絡脉が満ち溢れます。諸経がこれに拘わることはできません。


結びです。実際の例をあげて例えと合わせています。ここで言う「絡脉」とは、奇経八脉のことです。奇経八脉は正経に拘わらないため、ただ満ち溢れるだけです。正経の方でも奇経と拘わることがないので、昼夜に五十回づつ循るという常度〔訳注:法則〕を失わなくてすんでいるのです。初めの問いでは奇経が正経に拘わらないと言っていて、ここの答では正経が奇経に拘わらないと言っています。つまりはこの両者がともに互いに拘わることがないということを言っているのです。このため「奇」と名づけられているわけです。物事には正があればかならず奇があり、奇と正とは互いに生じて極まることなく変化していくものです。正は奇によってその用〔訳注:機能〕を発揮し、奇は正をその体として、互いに寄り添って離れることのないものです。



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