三十一難は、《黄帝内経》における三焦論にもとづいて、三焦の部位と機能、治療法などを解説した難です。三焦形質論のところで述べました、「おおむね統一された認識がある」「三焦の機能」について包括的に語っている場所です。

しかし、この最後段の、『その府は気街にあります』という言葉に関しては、これが衍文ではないのかという説も含めて、さまざまな異論が提出されています。



気街の問題



■三一難『その府は気街にあります』と《難経》にあることに対して、《難経鉄鑑》では、『三焦はまた別の腑であり、《内経》にはいわゆる「狐の府」として記載されています。ですからここに別出して気街の腑としているわけです。』と、気の通行する場所が府であると考えています。

■金代の紀天錫は、『人は水穀を受け、そのすべてを胃に納めます。谷気は胃から三焦に納められ、三焦が始めて肺に伝え、十二経に広がっていくのであるから、三焦の府が胃中にあるということは明らかでしょう。これは気街ではない』と《証義》にあることに対して『三焦は原気の別使であり、気街の気を用いて発を主る。水穀の気と合して四傍に達し、十二経絡を通じさせる。この府が気街にあることは明らかであり、《証義》の言葉は《難経》の意に合しない』と批判しています。

■現代の本間詳白による《難経の研究》では、気街が胃経の気衝穴であるとしていますが、このように一点を府とするのは、誤りでしょう。

■現代中国の《難経解説》には、北宋(1067年《難経注》)の虞庶の説をひいて、『三焦の府は気街にある。《針経》ではもともと気衝と命名する。衝とは通ることで、〈四方に達する〉意味と同じである。気街・気衝どちらの名でもよい』という言葉を引いています。はて、これは一点の経穴のことを述べたものか、範囲を述べたものか、どちらでしょうねぇ。

■清代末期の葉霖はその書《難経正義》で、『気街にあるとされる気街の位置は、毛際の両傍、足の陽明の経穴にあたります。これがすなわち三焦の根であり、原気の宿る場所、腎系によって生ずる脂膜がある場所なのです。』として、陽明胃経の経穴と腎系に関る脂膜とを同列に置きながら、それを三焦の根であると述べています。臨床的にはすっきりと理解できるこの論もしかし、なぜ、陽明胃経の経穴と腎系の脂膜とをそのまま混同してしまえるのかといったことに対する整理はなされておらず、さらにそれを三焦の根として位置づけるための説明もないので、ちと消化不良になりますね。





■現代の凌耀星さんの《難経校注》では、この問題について以下のようにまとめています。

三焦に関する『その府は気街にあります』という言葉について、滑伯仁は錯簡か衍文の疑いがあると述べています。その理由として、『三焦はもともと諸府に属しているものであり、その経脉は手の少陽と手の心主とに配されており、そのそれぞれに治する所があります。さらにその府に応ずるとすることはおかしなことです。』

滑伯仁のこの説に従うことはできません。この「府」という字は、気が集まっているというほどの意味であって、いわゆる六腑の「府」ではではないでしょう。徐霊胎はこの間の事情を、『府とは舎るという意味であり、蔵され聚まるという意味があります。これはその気が蔵され聚まっているという意味でしょう。』と述べています。滑伯仁はこの「府」を、六腑の「府」であると誤解したためにこのような説をとなえたものと思われます。

また、ここに述べられている「気街」というのは経穴の名前ではなく、《集注》で楊さんが述べているように、『気街とは気の道路のことです。三焦は行気の主ですので、府が気街にあるとされているのです。「街」とは、「()」のことであり、「衢」とは、四方に通じる道〔伴注:四つ辻・横道など〕のことを意味しています。』《霊枢・衛気》に『気街には、胸の気の気街があり、腹部の気の気街があり、頭部の気の気街があり、脛の気の気街があります。』と述べられていることから考えると、気街というものが古代においてはただ一ヶ所を指しているものではなかったということが理解されます。

そのような観点から原文を読み直してみると、『その府は気街にあります』という言葉は、上文における三焦を『治療する位置』すなわち、上焦における膻中、中焦における臍傍、下焦における臍下一寸を受けて述べられていることが理解されると思います。この三ヶ所は、上中下の三焦の気の舎る所・聚まる所・達する所なので、これを「気街」と呼んだわけです。このことは実践において、これらの三ヶ所が鍼灸を用いて上中下三焦の病変を治療する際に常用される経穴になっていることからも、明らかであると思います。本難において述べられている言葉は、以上のような実践を基礎としていると考えられます。






私はこの凌耀星さんの解説が説得力があるなぁと思っておりました。また、この説は、《難経鉄鑑》の説と同じですよね。しかし、勉強会の中で、この説明を読み終わった時に、「さんしょー」「さんしょー」ってつぶやく人がいるんですね。なんだろうと思っていると、一元の気としての三焦という考え方に基づいてこれをみるとなんだか、三元の気のようで、上中下と三焦が分離しているような印象を受けるみたいなんです。

うむーーー、、、

私は気がつかなかったなーーー。。。

お勉強なれというのも恐いものであります。





をっと、忘れないうちに付け加えておかなければならないのは、この《三十一難》の《難経》の原文の最終行、『ですから三焦と名づけます。その府は気街にあります。』というのは、文脈的に見て通じにくいのではないかという意見が出たということです。この難の始めにこの言葉が入るのであれば納得できるが、最後にくるのはいかがなものかという意見です。やっぱり滑伯仁が言われたようにこれ、衍文なのでしょうかねぇ。凌耀星さんの解説の始めに戻ってよく考えてみましょう。







2001年 1月21日 日曜   BY 六妖會




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