第 三十五 難

第三十五難




三十五難に曰く。五臓それぞれに腑とする所があり、皆な互いに近い場所にありますが、心肺だけが大腸小腸からの距離が遠いのはどうしてなのでしょうか。


臓腑は表裏をなしているのですから遠く離れているべきではありません。臓は神明の正寝〔訳注:寝室〕であり、腑は水穀の府庫〔訳注:倉庫〕であり、その用〔訳注:機能〕によって遠近の差が生ずるだけのことです。






然なり。経に、心は栄であり、肺は衛であり、陽気を通行するものなので、その場所は上にあり、大腸・小腸は陰気を伝えて下るものなので下にあるとあります。ですから互いの距離が遠いのです。


心肺はともに膈上に位置して陽気を通行し、外に栄周します、他臓の位置とは異なっています。大腸・小腸は水穀の濁陰の気を受けるものであるため、高い場所に位置することはできません。ですからお互いに近くに位置することができないのです。






また諸腑は皆な陽ですから、清浄の場所であるはずです。けれども、大腸・小腸・胃と膀胱とは皆な不浄なものを受けています、その理由は何なのでしょうか。


腑は陽であり、臓は陰です。陽は貴く、陰は賤しいものです。陽は清浄であり、陰は穢濁です。にもかかわらず腑が不浄なものを受けている理由は何なのでしょうか。






然なり。諸腑に対してこのようなことを語ること自体間違っています。経に、小腸は受盛の腑であり、大腸は伝瀉行導の腑であり、胆は清浄の腑であり、胃は水穀の腑であり、膀胱は津液の腑であるとあります。ひとつの腑に二種類の名前はありません、ですからこのような言い方が間違っていることがわかります。


「このようなこと」とは清浄のことを指しています。つまり、諸腑を清浄なものであると言うこと自体が間違っているということを言っているのです。臓は内を守り安静なものなので、その体は陰です、そして無形の神を主り尊いものなので、その用は陽です。腑は外を輔佐して運動しますので、その体は陽です、そして有形の穀を受け卑しいものなので、その用は陰です。胃は土に属して水穀を集める腑です。小腸は火に属して水穀を受盛し、火気によってこれを化し、これを大腸に送ります。大腸は金に属し天気に属し、これを伝えてこれを瀉し、運行導利することを司ります。膀胱は水に属し津液を湛え、尿を盛る腑です。これらは皆な水穀を運用する卑宦〔訳注:卑しい役割の官位〕です。胆は木に属して土を助けます、ですから水穀を運送はしませんが、胃土を外から助ける機能があるので、大いに水穀を尅化する用〔訳注:機能〕を輔佐します。実に胆は六腑の長なわけです。また胆は、直接には水穀を受けないために清浄の腑と名づけられていますが、この清浄という言葉は諸腑に対して言っているもので、五臓と比べるとやはり不浄であることから逸れることはできません。《難経》に、腑はひとつであり二種類の名前はありません、と述べられているのですから、さらに腑に他の種類があるわけではありません。腑が清浄な場所であるという言い方自体が間違っているのです。






小腸は心の腑であり、大腸は肺の腑であり、胆は肝の腑であり、胃は脾の腑であり、膀胱は腎の腑です。


再び、腑には二種類なく、それぞれその属する臓があるということを説明しています。上文では腑の用について語り、ここでは腑の主について語っています。






小腸は赤腸といい、大腸は白腸といい、胆は青腸といい、胃は黄腸といい、膀胱は黒腸といい、下焦が治める所です。


三たび説明しています。一腑には二種類の名前はありませんが、それぞれ五臓に属しますので、五臓の色によってこれを名づけています。小腸と呼びながら、赤腸とも呼んでいるのは、二種類の名前があるようですが、実はそうではありません。諸腑は皆な下焦が治めるところであり不浄です。清浄な場所ではないことはここに明らかです。


問いて曰く。六腑は三焦の主る所です、今ただ下焦だけを治める場所としているのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。五臓は清浄なものであり、心肺が陽気を行らすことを主とします。六腑は不浄なものであり、下焦が水穀を別つことを主とします。けれども五臓は腎をその根とします、清の本は陰にあるわけです、これが先天の元気です。六腑は上焦をその原とします、濁の本は上にあるわけです、これが後天の穀気です。では六腑が下焦に会する理由は何なのでしょうか。胃の下脘より下は皆な諸腑の位置する所であり、下脘より下は下焦が司る場所だからです。上焦・中焦に関わっているのは胃だけです。



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