第 四十八 難

第四十八難




四十八難に曰く。三虚三実という言葉がありますが、これは何のことを言っているのでしょうか。


三は万物を生じます。ですから三という数は虚実の変をその中に尽く包含しているものです。前難ではただ顔面が陽実であるという理由だけを述べていますが、この難では三種類の虚実の診方を論じています。






然なり。脉の虚実があり、病の虚実があり、診の虚実があります。


脉は診の切要〔訳注:もっとも大切な部分〕ですので別にこれをあげ、診の虚実には諸診を兼ねて語っています。病は本であり、診は標です。病には症候があり、その症候が現われるということもまた診となります。また脉診は標であり、病診は本です、このように標本を兼ねて診るということがすなわち診の虚実です。ですから三法を集約するとただ一診となります。






脉の虚実は濡のものを虚とし、堅牢なものを実とします。


脉状には千変万化ありますけれども、その柔濡なものは皆な虚であり、緊急堅牢なものは皆な実です。形状に拘わってはいけません。柔軟なものは元気が弛んで張らないものなので、虚以外の何物でもありません。堅牢なものは邪気が迫って相い撃つものですから、実以外の何ものでもありません。諸篇の脉候を、ただこの一句に集約して示しています。これがすなわち脉状の一貫した診方です。






病の虚実は出るものを虚となし、入るものを実とします。言うものを虚とし、言わないものを実とします。緩のものを虚とし、急なものを実とします。


百病が蜂起するとその症候は非常に多く、奇々怪々の様相を呈しますので、それらをあえて記すことはできません。けれどもこれらの病も要約すると出ることと入ることとに過ぎないものです。今、出るものの状態についてその概略をあげてみましょう。汗が出るものは表虚です、涎唾が出るものは裏虚です、泣涕が出るものは上虚です、精が泄れ赤白濁し瀉痢・遺尿・小便が多いものは下虚です。私は、一人の純血を夢遺して精がないもの〔訳注:夢の中で血液だけを泄らして白い精はないもの〕を見たことがあります。これは気が虚して血が精に化すことができないもので、気を補うことによって治りました。蛔虫が出るものは胃虚です、肛門が出るものは腸虚です、咳呃〔訳注:咳やしゃっくり〕・嘔吐・膈噎〔訳注:咽がつまって食べ物が入らない状態〕のものは胃が虚して咽喉が利さなくなっているものです、諸々の出血および瘡腫や膿血が出るものは血液が虚したものです、卒昏して〔訳注:突然倒れて〕口を開き手を撒ずる〔訳注:手を開いた状態の〕ものは元陽の虚脱です、婦人の帯崩は血室の虚です、乳泣は気虚です。分娩後は身体が虚します。上記のような諸症が単純に現われている場合は、全て虚証です。けれども別に病症があって、それと併わさる形で現われている場合は、本病の標として現われているものですから、虚だけであるとは限りません。本病を治療することによってこれを治していきます。


入るものの状態をあげます。翕熱する〔訳注:盛に発熱している状態〕ものは表実です、食滞のものは裏実です、鼻や耳が塞がるものは上実です、二便が閉じて淋痛するものは下実です、酒によって狂ったようになるものは胃火実です、嚢縮する〔訳注:陰嚢が縮む〕ものは陰火の実逆です、手足が拘拳する〔訳注:拘攣の誤りか〕ものは癖積〔訳注:両脇に生じた積〕です、卒昏・牙緊・四肢拘急するものは筋脉が閉実したものです、婦人の鼈癖の類は血室が壅がったものです、胎孕〔訳注:妊娠〕は胞宮が充実したものです。このような諸症状が単純に現われている場合は、皆な実証です。けれどももし他の症状がある場合は、その本病の虚実に従います。ですから単純に実であるとは言い切れないものです。これが病候によって虚実を診察する方法です。


そもそもまた小児の顖陥〔訳注:大泉門部の陥凹〕および癰痘〔訳注:痘疹によるできもののことか〕の類で陥凹するものは、内が虚したために起こる症状で、実に入れる徴候ではありません、似て非なるものと言うことができるでしょう。言語は気機が動じたものです。ですから気道が通利している時は話し易く、気道が塞がっている時は言動することを欲しなくなります。実は陽であり、気道を広く塞ぐと視聴や言動を欲しなくなります。虚は陰であり、〔訳注:生命力が〕単に〔訳注:すべて〕血分に入ると気が血につくことができなくなるため〔訳注:気が〕浮散します、ですから多言・多慮・善んで視聴するといった状態となります。この症と虚脱による懶言や実熱による譫語とは全く異なっていますので、混同しないようにして下さい。これは気機によって虚実を論じたものです。また言うものは聞くことができますが、言わないものは聞くことができませんので、これは声診には入らず病候に入ります。


凡そ病状が緩やかなものの多くは内傷によるものであり、虚です。病状が急なものの多くは外感によるものであり、実です。また思うのですが、外感の病でその病状が緩やかなものは邪が微かなものであり、治療しなくとも自然に治ります。また内傷でその病状が急なものは正気が奪われている状態であり、治療したとしても治り難いものです。これは病勢によって虚実を論じたものです。よく考えてみるとこのようなことは病候にだけあてはまるのではなく、天時〔訳注:天の運行〕や人事〔訳注:人間界の出来事〕にもまたあてはまります。往年、東風が十日余り吹き続けたとき、西風の烈しい吹き返しがあるのではないかと人々は皆な恐れました。その時私は語ったものです、緩は虚とします、今、旬日〔訳注:十日〕余り緩の風が吹いたのですから、どうして暴変があるのではないかと心配する必要があるのでしょうか、と。果たして、私の言った通りになりました。






診の虚実は濡を虚とし、牢を実とします。痒いものを虚とし、痛むものを実とします。外が痛み内が快いものを外実内虚とし、内が痛み外が快いものを内実外虚とします。


「診の虚実」とは諸々の診法を兼ねて言っているものです。たとえば望診して嫩濡なものは虚であり、堅牢なものは実です。聞診して濡細なものは虚であり、牢固なものは実です。その他、形容・進退・四肢百骸の状態が、濡弱なものは虚であり、牢固なものは実です、これが望聞の要となります。また脉の牢濡についてはすでに別に説明されています。


痒は血気動散して収まらないものであり、虚です。痛は血気滞塞して通じないものであり、実です。ですから癰・痘・淋・痔の類で、痒いものは虚とし、痛むものは実とします。摩点すると〔訳注:さすると〕痒くなるのは血気が微かに動じたからです。打撲すると痛むのは血気が凝滞したためです。虫螫(ちゅうせき)して〔訳注:虫に刺されて〕痒くなるのは血気が動じたためです、痛むのは虫の毒が血気を阻んだからです。垢膩〔訳注:垢〕によって痒くなるのは鹹悪が表で動じたためです。金創〔訳注:刀傷など〕によって痛むのは栄血が傷られたためであり、痛まないものは傷が深く正気が虚したものです。火に近づくと痒くなるのは血気が微かに動じたからです、火に触ると痛むのは栄血が傷られたためです、寒に冒されて痛むのは栄血が渋ったためです。小児が身体を痒がるのは血が増えようとして気が動ずるからです、老人の身体が痒くなるのは血がまさに枯れようとして気が動じるからです。壮者は血気が剛いので身体を痒がることがありません。全身が非常に痒いものは血が乱れて気が孤立したものです、全身が非常に痛いものは風寒湿痰の邪が栄衛の運行を妨げているからです。痛痒における虚実の大旨は以上にあげた通りです。


また虚痛のものもあります、栄血が虚して渋ったものです。まさに死のうとする時に痛むのは支節〔訳注:関節〕が離断しようとしているためです、仏教でいう断末魔がこれです。痛と快とで内外の虚実を知る方法は、先ず痛む所には必ず血気が凝集しますから実です。痛む所が実なのですから、痛まずに快い場所というのは、血気が散じて虚している場所です。頭痛が甚だしいときは、血気が上実して足脛が虚冷する類になります。もし表が強痛して裏証がないものは表実です、表が実するものは裏が虚しています。もし裏が急痛して表邪がないものは裏実です、裏が実するものは表が虚しています。ですから外邪が表にあると頭痛・脊強等の症状が現われます、このような症状を呈するものは外が痛み内が快いものです。外邪が裏に入ると脹満・燥渇等の症状が現われます、このような症状を呈するものは内が痛み外が快いものです。陰陽がその権衡〔訳注:バランス〕を失うと、もう片方が偏勝するということは理の常です。これらは皆な問うことによって知ることができる方法です。私はある淋疾の患者を見たことがあります。傷風〔訳注:感冒〕によって表熱が非常にきつくなると内の気も表に併さったため、かの淋疾までもそのまま治っていました。しかしその風熱が治ってしまうと、淋疾がまた出てきていました。これ以外にも、内外がともに実し、ともに虚するといった症状があります。諸篇に基づいてよく考えてみてください。






ですから虚実と言います。


虚実の三法には、実に望聞問切の諸診を兼ねています。百病は虚実に過ぎません。兵家に、兵法は虚実を出ることがないと言われています。まことに理に合った言葉です。



一元流
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