第 五十九 難

第五十九難




五十九難に曰く。狂癲の病はどのようにしてこれを弁別するのでしょうか。


前難の傷寒は、外邪の主であり形気を傷ります。この難の狂癲は、内動の主であり心情を乱します。






然なり。狂疾の起こり始めは、臥すことが少なく、飢えず、自らの賢を高くし、自らの智を弁じ、自らを貴いものとします、妄りに笑って歌楽を好み、妄行して休むことがないものがこれです。癲疾の起こり始めは、意を楽しまず僵仆して直視します。


心の驕亢が甚だしい場合は、陽気が心に集まって降ることがなくなり、ついには発狂して陽証の諸症状が現われます。「臥すことが少な」いということは陽が躍り出て陰の中に入ることができない状態です、「飢え」ないということは陽気が充塞しているために陰による養いを求めないということです、「賢を高く」するということは妄りに陽の徳を奮うということであり、「智を弁じ」るということはみだりに陽光を輝かすということです、「自らを貴いものと」するということは妄りに陽位を犯すということであり、「妄りに笑」うということは陽の言によって人を蔑むということです、「歌楽」するということは陽の情が自然に充足するということであり、「妄行」するということは陽の体が静ではないということを表わしています、このように陽気過多の状態について説明しているわけです。「癲」で、心の卑隘〔訳注:狭く卑しいこと〕が甚だしいときは、心陽が畏縮して舒びやかではなくなり、ついには陰証の諸症状が現われます。「楽しま」ないということは陰憂〔訳注:陰気な憂い〕によって鎮が生じて陽情が滅却していることを表わしています、「僵仆(きょうふ)〔訳注:倒れ伏す〕するのは陰の体が転倒して陽徳の厳威が亡んだ状態です、「直視」とは陰気が暗と結びついて陽光の精気を奪ったものです。これらはおおむね陰過多の状態をあげています。陰証の事例が詳細に集められていないのは、陰は陽の反対ですから陽の事例を反対にすれば知ることができるからです。また思うのですが、ここにあげられている陰陽の症状は、陰陽の体と情とを説明しているにすぎません。つまり、「臥す」「飢え」「妄行」は体であり、「賢」「智」「歌笑」は情であり、「仆視」は体であり、「楽しまない」ということは情になります。






その脉状は、三部の陰陽ともに盛なものがこれです。


この難で病症の結びとして脉状をあげているのは、二十難において脉状の結びとして病症をあげていることと表裏をなすものです。狂と癲とには陰陽の違いがありますけれども、陰や陽を損傷しているということを言っているのではありません、狂も癲もともに心竅が茅塞(ぼうそく)される〔訳注:蔽われる〕ことによってこのような病状を表わしています、ですからその脉状はともに盛実を表わします。「三部」とはいわゆる寸関尺の三部のことであり、「陰陽」とはいわゆる浮沈のことです。重陽の脉状は陽が盛実であり、重陰の脉状は陰が盛実です。二十難ではすでに重陰重陽の脉状について説明しています。この難でともに盛と言っているのは、二十難の遺旨〔訳注:言い残した内容〕をここで語っているのです。



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