第 七十二 難

第七十二難




七十二難に曰く。経に、よく迎隨の気を知りこれを調えなければなりません、調気の方法は必ず陰陽にありますとあるのは、どういう意味なのでしょうか。


迎隨の気を知るとは、虚実の気を知ると言っているようなものです。迎はその実に逆らってこれを瀉すことであり、隨はその虚に順ってこれを補うことです。その気を平調させて偏跛の疾患をなくするためにこれを調えるのです。また陰陽が和せばその気もまた和します。気が陰陽の中にあるということは、水が方円〔訳注:四角や丸など色々な形〕浄穢の〔訳注:清浄であったり汚れていたりする〕器に従うようなものです。






然なり。いわゆる迎隨とは、栄衛の流行と経脉の往来とを知って、その逆順に従ってこれを取ることです。ですから迎隨と言います。


栄衛は流動のことを言い、経脉は隧路〔訳注:通路〕のことを言います、その実は一つのものです。もし風が衛を傷ると、悪風自汗・面が光って身体が重くなります。寒が栄を傷ると、悪寒して無汗・面が惨となり身体が痛みます。このような症状によって栄衛の流行に通塞があることを知るのです。太陽経の病は、頭疼・脊強・発熱であり、陽明経の病は、目痛・鼻乾・眠ることができないものであり、少陽経の病は、耳聾・脇痛・往来寒熱し嘔逆して口苦するものであり、太陰経の病は、咽乾・身目黄であり、少陰経の病は、吐痢・絞痛・踡臥であり、厥陰経の病は、四肢厥逆・舌巻き・吐沫するといった症状を呈するものです。このような症状によって経脉の往来に難易があるということを知るわけです。これは傷寒の症状のほんの一部だけをあげて例としたものです。他の病については、推して理解するようにしてください。


問いて曰く。その逆順に従ってこれを取るとありますが、順は常です、どうしてこれによって取ることができるのでしょうか。

答えて曰く。ここで言っている逆順とは常と変について言っているものではありません、病症に逆順があるということを言っているのです、つまりは虚実という意味です。たとえば勇悍の者〔訳注:勇気があって気が速い人〕は自分と合わないとみると必ず払逆して〔訳注:逆らって〕争います。このように正気が強いときには邪に逆しますので、迎えてこれを瀉すという治法を施します。また虚弱な者は自分を犯すものがあってもそれに順い争うことはしません。けれどももし自分に隨って輔佐してくれるものがあれば、邪を追い払ってその本に帰するようにします。このように正気を補うことができれば、自然に邪は去っていきます、ですから隨ってこれを補うという治法を施すわけです。






調気の方法は必ず陰陽にあるとは、その内外表裏を知り、その陰陽に従ってこれを調えるものです。ですから調気の方法は必ず陰陽にあります、と言われているのです。


内外表裏を知るとは、「内」に飲食・労倦・情志等といった症状があり、「外」に風寒・暑湿・瘴毒等といった症状があり、「表」に頭痛・洒淅・発熱・麻痺等といった症状があり、「裏」に嘔吐・腹満・瀉痢・癃閉等といった症状があるということを知るということです。この内外表裏のそれぞれに冷熱虚実等の違いがあり、これがすなわち陰陽です。虚冷のものはこれを補い温め、実熱のものはこれを瀉し清し、その陰陽の偏りを平らげることができればその気は自然に調和します。そもそも陰陽を調えるということは、治法の問題だけではありません。もし甚だしく喜んだために陽が動じたときは、真気が耗散されて健忘や暴絶といった疾病を起こす恐れがあります。甚だしく憂えたために陰が凝結するときは、真気が結滞して瘕積や急閉といった疾病を起こす恐れがあります。衣服が暖か過ぎると、心火が盛になり瘡瘍を生じ、衣服が寒過ぎるときは、肺金が敗られて咳嗽を発します。辛甘の味のものを多く食すると、気が熱して逆上します、酸苦の味のものを多く食すると、気が冷えて瀉下します。大廈〔訳注:大きな家〕は陰が勝ち気が冷えますので、中満・瀉痢・痿弱等の疾病を生じ、高いお堂は陽が勝ち気が燥きますので、消渇・痩削等の疾病を生じます。洪荒渺茫の地〔訳注:荒れ地〕は、気が常時散じていきますので眩夭折等の災いがあり、蔽隘窊窄の地〔訳注:狭く蔽われている地〕は、気が常時閉じていますので痛腫・結核等の疾病を生じます。ごく大雑把に陰陽の偏りというものをあげてみるとこのようになります。これ以外に出納において驕吝したり〔訳注:身の程をわきまえずに贅沢をし過ぎたり吝嗇になったり〕、恩義を奪いあったり、仁を好み直〔訳注:実直〕を好んでその弊害をもたらしたりしているものは、全て調和を失っているものです。天地の変〔訳注:天変地異〕であれ、人事の化〔訳注:人間の事件〕であれ、往々にしてこれが原因となっているものです、大きな視点で把えかえしてみてください。今、貧〔訳注:わたし〕の観察では、生まれつき放肆(ほうしん)〔訳注:きまま〕なために蝸盧(かろ)〔訳注:非常に狭い家〕に住んでも精気が壅滞しないものがあり、よく動作するためにほしいままに食べていても積聚を生じないものがあり、芸術に耽ることがないので神志を労することなく自然に長養の道を歩んでいるものがいます。ですからただ貪婪(どんらん)〔訳注:ものをむさぼること〕淫奔(いんぽん)〔訳注:性的にだらしがないこと〕のものだけが短折〔訳注:短命〕を逸れられないだけです。


問いて曰く。近世では茶を喫み煙草を吸います、この行為は陰陽を調える道としてはどのように考えますか。

答えて曰く。茶を煮る際には水を用います、陰に属して気血を清利する効能があります。煙草を点けるには火を用います、陽に属して気血を運達する効能があります。また茶茗の気味は清香であり、金芽と名づけられています、煙草の気味は軽薫であり、金絲と名づけられています、ともに黄中の正色を得ており雲外の気味〔訳注:天上の趣〕を備えています。いわゆる腋下の清風は茶を喫むことによって生じ、面前の奇雲は煙草を吸うことによって出ます。これらはよく身内の濁欝を散じ、多服しても飽きることがありません。献酬の労や、沈湎の過ちもなく、仕事を妨げたり、乱れたりすることもありません。これを用いる際に、四時昼夜・閑冗静躁〔訳注:暇であるか忙しいか静であるか騒がしいか〕といった忌避すべき時はありません、男女・老少・賢愚・尊卑の差別もありません。道々これを嗜んでいても恥とはならず、臥睡しながらこれを翫んでいても放肆であるとはされません。信に日用するにもっともよいものであり、賓客をもてなす道具ともなるものです。この二物は陰陽を調え、気を和する良品であると言えるでしょう。けれどもともに軽利の効能はありますが補養の徳はありません。ですから真気や精血が虚耗している人は、これを断つべきでしょう。


また問う。上世にはこのような茶茗がありませんでした。何を用いて気を調えていたのでしょうか。

答えて曰く。澆季(ぎょうき)の世〔訳注:末世:人情が薄く世が乱れている状態〕では、人の欲が日々厚くなり、名利も腸に熱しています、ですから苦茗の軽寒に頼りこれを清するのです、貪り求める心に塞がれていますので、辣烟〔訳注:煙草〕の軽温を借りてこれを散じているのです。思うに、上世にたとえこの二物があったとしても、それは無病の人が薬を服するようなもので、必ず大きな害をもたらしたでしょう。ですからこれを採用しなかっただろうと思います。現代では杞人が天を憂うる〔訳注:杞憂の語源:杞の国の人が天が落ちてくることを心配していた故事〕ような状態に慣れてしまったため、このような具えを設けて汚滞を取り去っているのです。これは水難に具えて水具を設け、旱魃に具えて旱具を用意するようなものです。また今、寡欲の人によくお願いしておきます。この二物に耽って生を傷らないように注意してください。



一元流
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