第 七十五 難

第七十五難




七十五難に曰く。経に、東方が実し西方が虚した場合には、南方を瀉して北方を補うとありますが、これはどういう意味なのでしょうか。


前難では天の四時に繋げて語っていますが、この難では地の四方によって語っています。このように天と地とで語り明かすことによって、この両難は詳細に微妙な道を語り尽しています。四時は縦に行き順生の道を表わし、四方は横に廻って逆剋の位を表わしています。逆剋とは、位階という厳しい階級を奪いあい争いながら、襲犯することはできないものを言います。四方が剋するという言葉は、四時に対応させて仮りに言っているものです、この四方にももともとは順生の意味があり、これについては以下に述べられています。






然なり。金木水火土は、互いに平されているべきものです。東方は木であり、西方は金です、木が実しようとすれば、金がこれを平します。火が実しようとすれば、水がこれを平します。土が実しようとすれば、木がこれを平します。金が実しようとすれば、火がこれを平します。水が実しようとすれば、土がこれを平します。


四方には形がなく、五行には形があります。形があるものは明らかにし易いものですから、五行によって相互に平する道を論じています。金木水火土は相剋の順序であり、縦に立つものです。ですから金である天は上に位置し、土である地は下に位置します。中間には木水火があり地から生じて、その気は天に升ります。《易》にいわゆる、『天地が位を定め、雷風が相い薄(せま)り、水火が相い討つ』とあるのがこれです。木火土金水は、相生の順序であり横に廻ります。ですから木は東に始まり春を主り・火は南にあり夏を主り・土が中にあり季夏を主り・金は西にあり秋を主り・水は北にあり冬を主り、終わって復び始まるものです。《易》に、『帝は震に出・離に相見し・兌に説言し・坎に労す』とあるのがこれです。


五行の相生関係で、木が火を生ずるということは、たとえば木を穿ち火をおこすということです、火に体はなく、木を体とするわけです。木がなくなると火は消えます、これは木が火を生ずるということを表わしています。石を撃ちつけたり金を打ち合わせてできる火や飛火・雷火・沢焔・火井の類もありますけれども、これらは皆な物に舎っている火であり短時間しか見えません、木によっておこされた火とは違って生育するわけではないのです。《易》に、『木を火に巽(そな)えることによって亨飪(ほうじん)して〔訳注:よく煮ることによって〕これを養う』とありますが、これこそ木が火を育てるということを表わしている言葉です。


火が土を生ずるということは、たとえばあらゆる物は火によって焼かれて灰塵に帰しますが、この灰塵は土堆を生じます。また、土は火によって焼かれると乾いて堅くなります。伝に、五穀が育たず、禽獣が人に迫ってきた時、山沢が烈して〔訳注:燃え上がって〕これを焼いたために助けられた、とありますが、これもまた地の宜〔訳注:意味〕を輔相し〔訳注:補強し助け〕ているものです。


土が金を生ずるということは、たとえば土気が凝固すると変化して金石となり、諸物を土の中に埋めると朽ちますが、ただ金石だけは土に入れても壊れません。かの豊城の剣が、長期間地中に隠れた後に現われましたが、それがこの類です。私はもとは河東の寺川村に生まれましたが、その場所は、寺山に隣接していました。この山中に一人の人が住んでいましたが、夜になると遠くから鐘の音が聞え、その音は年々近くなり、自宅のそばで鳴るようになりました。そこで認可を得て古い釣り鐘を掘り出したことがありました。これもまた埋没されていた金器が、土気によって徐々に升ってきたものです。これらの例はともに土が金を生じるという徴(こと)を表わしています。


金が水を生ずるということは、たとえば水はもともと土の中に蔵されていますが、水気が疎泄されるとその土は堅く凝結して最後には金石になります。たとえば酒を造る際に稲米を搾るとその精汁が疏泄されて糟粕になるようなものです。稲米は土のようなものであり、その糟粕は金のようなものであり、酒は水のようなものであると考えられます。糟粕が残らなければ酒ができませんし、金ができないと水が生じません。ですから沙石の間には必ず水が生じています。また濁水であっても沙石によって濾過されると清潔になります。また、水を貯めるためには堅い器を用いなければなりません。これらは皆な金が水を生ずるという根拠となるものです。


水が木を生ずるということは、たとえば草木が生ずるということですが、もともとは雨露が沢になることに関連します。草木の体には皆な津液がありますが、夜間になると、草木はその葉の上に自然に露をのせます。また乾瘠の地〔訳注:乾燥して痩せた土地〕には、水気がないので草木が生じません。草木を切り取っても、水に浸しておくと長期間枯れずにいます。《易》に、木を刳(えぐ)って船とし、木を剡(けず)って楫(かじ)として、通じないものを済(わた)すとあります。これは木が水を資(たす)けて浮くということを述べたものです。


木が土を剋するということは、たとえば草木が生ずるということで、その際には大地が破裂します。草木が茂ると、地形が隠没します。《易》に、木を斫(き)りて耜(し)〔訳注:犂(すき)の頭〕となし木を揉(たわめ)て耒(らい)〔訳注:犂の柄〕とするとあります。これもまた木を用いて土をおこすということです。


土が水を剋するということは、たとえば取った土を水に入れると濁って水の用をなさなくなるということです。また土を四海の中に堆積させ、水を制して州国を開くということです。《易》に、穴居して野所していたが、これを宮室に易(か)えて風雨を待つ、とあります。これもまた土で水を防ぐということを表わしています。


水が火を剋するということは、たとえば火が水によって消えるということです。伝に、大旱魃のときには水を望むとありますが、これもまた水によって火を制するということです。


火が金を剋するということは、たとえば金の堅さは、火によって溶けます。書に、火が崑岡に炎えると玉石をもともに焚く、とあるものがこれです。


金が木を剋するということは、たとえば木を伐る際に必ず金鉄を用いるということがあります、これは人力によるものです。金石沙礫の土地には、草木が生じませんが、これは自然の状態です。伝に、時々斧斤(ふきん)〔訳注:斧とまさかり〕をもって山林に入るとありますが。これらはともに金が木を制するということを表わしています。


「実」というものは五行を偏勝させるものです、「平」というものは五行を調和させるものです。もし草木が漫然と生えてくると、土気が尽きそうになり、人にも物にも安らげる土地がなくなるので、金玉や沙石を用いてこれを平らげます。火炎が焦燼すると、金石や台城が壊れそうになり、貯蓄したり護衛する場所がなくなります、ですから雨露や水沢を用いてこれを平らげます。土泥や塵霾(じんばい)〔訳注:塵や土が降ること〕が紛雑する〔訳注:蔓延する〕と、水泉が濁り壅がれて潤養する場所がなくなりますので、草木や苔や藻を用いてこれを平らげます。珍器や城屋が満ち溢れると、樹木や穀菜が生育するための土地がなくなります、またもし器物が長く保たれすぎると、生造の道が竭します、ですから炬火を用いてこれを平らげます。城屋はすなわち人の甲であり金に象ります。火を用いてこれを平らげると、生生して息むことがなくなります。これによって広々となると、新しくなったという意識が生まれます。水潦や霪晦(いんかい)〔訳注:暗い長雨〕が甚だしすぎると、乾燥した場所がなくなり、陸地が皆な魚や鼈〔訳注:すっぽん〕のものとなりますので、土や山や堤防を用いてこれを平らげます。これらは五行が互いに平らげあったものです。天の四時や人の五臓が互いに平らげあうこともまた、これと同じようになされるのです。


問いて曰く。五行の義は、相生と相剋で語り尽されているのでしょうか。

答えて曰く。五行の蘊奥は、この相生と相剋で統括されています。その変については数えあげることができません。また、水火木金土を順序とするものがありますが、これは微〔訳注:ほんのわずかな所〕から著〔訳注:著しい所〕に至り、生ずる所から成す所に到達するということを表わしています。これは水と土を万物の範囲としているものです。つまり《洪範》〔訳注:《書経》の中の篇名〕の大義や、河図洛書が起こる所がこれです。また、土金水木火を順序とするものがありますが、これは五行を地に属させて、陰土を主として並べたものです。さらに、火湿燥寒風の順序もあります、これは六気を天に属させて、陽火を主として並べたものです、つまり運気論の法の立て方です。さらに金を首〔訳注:始め〕にするものは納音の法ですが、このことから推測して以下のことを知ることができます。すなわち、色を主とするものは木を首とし、味を主とするものは土を首とするといったことです。また仏教に、地水火風空の順序で語られるものがあります。これは地を主とし、地から水火風の順序で上って空際に至り、地から水火風の順序で下って空際に至るもので、これはすなわち地輪である四大〔訳注:地水火風〕を統括して空輪の中にあるとするものです。これらは皆な五行の変化であり、窮め尽すことのできないものです。






東方は肝ですから、肝実であることがわかります。西方は肺ですから、肺虚であることがわかります。南方の火を瀉し、北方の水を補うとありますが、南方は火であり、火は木の子です、北方は水であり、水は木の母です。水は火に勝ちます。子は母を実させることができ、母は子を虚させることができます。ですから火を瀉して水を補うことによって、木を平らげることができない時に、金を補おうとしているのです。


東方が実し西方が虚するものとは肝実肺虚の病のことです。南方を瀉し北方を補うとは、心を瀉して腎を補い肝肺の病を治療しようとすることです。夏火が盛なときは草木も盛美となりますが、これは子である火が母である木を実させているということです。水が勝つときは火が衰えます、ですから冬水が盛なときは草木も凋零します、これは母である水が子である木を虚せしめているということです。この理論によって、火を瀉して水を補うと、金自体で木を平らげなくとも木は自然に平らげられるということになるわけです。五行が互いに平らげあうものは常法であり、子母関係を用いて互いに平らげようとするものは変法です。偏虚偏実の病は常法を用いても平らげることができませんので、変法を用いてこれを平らげようとしているわけです。


問いて曰く。五臓それぞれにこの治療法を用いるのでしょうか。

答えて曰く。本文で五行が互いに平らげあうと言っていますので、五臓全てがこのような治療法で治療されるということがわかります。もし南方が実して北方が虚するならば、中央を瀉して東方を補います。他の臓もこれに倣って考えていってください。


問いて曰く。この治療法を用いる際、どの兪穴を取ればよいのでしょうか。

答えて曰く。東方が実するものは肝の栄を瀉し、西方が虚するものは肺の合を補います、これは七十九難の迎隨の意です。また肺虚に腎を補うのは母が虚しているものは子を補うということであり、肝実に腎を補うということは、子が実しているものに母を補うということです、これはつまり治法の変例です。


問いて曰く。火は木の子です。子は母を実させるとありますが、木の体は火に焼かれることによって減ります。どうして母を実させると言えるのでしょうか。

答えて曰く。子を生んで母が虚耗するのは、当然の理です。人が子を生んで、子が壮年になれば父母は老います。老いますけれども父の道は子によって盛になります。春は夏を生じます、夏が旺になると春気は去ります。去りますけれども春温の気は、夏によって熱になります。また母子は一体です、子が元気であれば母体も元気です、夏に熱となるものは春温の熱です、ですから火は木を焼き尽すのです。木気が盛となって火に変化するのであって、木を滅ぼしてしまうわけではありません。山林が自分で焼けていくのは、木が夏気を生じるからです。《易》に、風は火から出るとあります。これは火が木気を生じるということを意味しており、その体が一つであることを表わしています。火が燃えた後、灰や炭の塊ができるのは、火気が盛なために土に変化するためです。金石が多くなると土が虚耗するのは、土が盛なために金に変化したからです。水泉が長じて石を穿ち沙が流れるようになるのは、金が盛なために水に変化したものです。草木が茂ることによって水が涸れ沢が竭するのは、水が盛なために木に変化したものです。ですから、母子の剋は剋に似てはいますが実は剋ではありません、剋されることによって却って体を盛にするのです。これは身を殺して仁をなすようなものです。仁の殺は殺に似てはいますが実は殺ではありません、かえって身を全くするものです。桎梏しながら死するものとは懸隔し〔訳注:大きな違いがあり〕ます。






経に曰く。その虚を治することができないものには、その余を問うことはできない、とはこのことを言っているものです。


あらゆる病は虚によってなります。ですから虚を治療することを知らないものは、もともと病情が理解できていませんから、それ以外のことを見る必要はないのです、どうして問う労力を使うことがあるでしょうか。肺虚のものに腎を補うのは、もともと金が火による災いを受けているからです。ですから水を用いるとその火が水を得ることによって熄み、金は水を得ることによって堅くなります。信(まこと)に一挙両得の妙術であると言うことができるでしょう。もし水が土によって壅滞されている場合に、木を用いると、水は木を得ることによって升り、土は木を得ることによって瘠せます。もし木が金によって摧(くだ)かれて〔訳注:滅ぼされて〕いる場合、火を用いると、木は火を得ることによって栄え、金は火を得ることによって缺けます。もし土が木によって蔽われている場合、金を用いると、土は金を得ることによって堆積し、木は金を得ることによって敗れます。もし火が水に侵されている場合、土を用いると、火は土を得ることによって休み、水は土を得ることによって止まります。これらは皆な一挙両得の義なのです。



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