第 八 難

第八難




八難に曰く。寸口の脉が平であるのに死ぬものがいるのはどうしてでしょうか。


一難に、寸口は死生を決すと言っていますが、寸口の脉状は平であるのに死ぬものもあるのはどうしてなのでしょうか。






然なり。諸々の十二経脉は、皆な生気の原に係ります。


「諸々」とは衆多〔訳注:多数〕ということを意味する言葉です。諸々の十二経脉とは、奇経八脉および諸々の絡脈を含めて言っています。「生気の原」とは、人の生の根原のことを言っています。生あるものには全て気があるので生気と言っているのです。「生」とは陰陽の精化であり、人身を生育させて天命を保合すること〔訳注:ここでは、天から授けられた運命を保持しそれに自身の生命を合致させていく行為〕を意味する言葉です。「気」とは生命を機括する〔訳注:生命機能を統括する〕ものであり、推測できない神明〔訳注:ここでは、神秘的な働き〕を語る言葉です。「原」とは全身の根蒂〔訳注:基礎となる中心のこと〕です。寸口は十二経脉の大会であるとは言っても、それは十二経の根蒂をなすもの〔訳注:すなわち、生気の原〕が存在するがゆえにそう言えるわけです。






いわゆる生気の原とは、十二経の根蒂のことを言い、腎間の動気のことを言います。


生気の原とは腎間の動気のことであるということを明らかにしています。動気とは、腎中における真陽の活動を意味しています。生あるものは全て動じ、死に帰するものは全て静かです。冬至には一陽が動じて万物が生じます。動こそが、生きるゆえんであるということをよく理解してください。






これが五臓六腑の本であり、十二経脉の根であり、呼吸の門、三焦の原です。一には守邪の神とも名づけられています。


経文では、初めに経脉を主として生気の原に係るということを説明し、次に生気の原を主として腎間の動気を説明し、ここでは腎間の動気を主として百体〔訳注:全身四肢百骸〕について説明しています。この三文が絡み合う形で腎間の動気が最も重要であるということを説明しているのです。この文章の始めにある「これ」とは、腎間の動気のことを指します。五臓六腑はこの腎間の動気によって神用〔訳注:臓が蔵している神の機能〕が窮まることなく機能し、穀化〔訳注:食物の消化吸収〕も休むことなく運行されています。ですからこの腎間の動気がもし衰えるときがあれば、神智が明らかではなくなり、昏倒・悸忘・驚狂等の一切の神志の病が発生し、また食物も消化吸収できなくなり嘔吐・泄痢・不食等の一切の水穀の病が発生します。また十二経脉もこの腎間の動気に依存しています。ですからこの腎間の動気が衰えるときは、痿痺・攣痛等の諸経脉の病が発生します。天の一気はこの腎間に宿って呼吸の枢機〔訳注:呼吸の中枢機能〕を主ります。ですから、この腎間の動気が衰えるときは、気微〔訳注:呼吸が弱く浅くなること〕・喘急等の呼吸器系統の病が発生します。三焦は原気の別使〔訳注:原気から派遣されて四肢末端までその力を及ばさせる使者〕であり、火が燃え上がるような勢いで全身を満たし暖めます。


師は言われました、「三焦は腎間の動気によって充実します。その状態は、三層の灯篭の一番下の層を大きく燃え上がらせると、その光が三層全体に輝き渡るようなものです。ですから腎間の動気が衰えるときは、上下表裏の虚証がたちまち発生します。この事実から腎間の動気を尊称して、守邪の神と呼んでいるのです。天の気は人に舎り気の中に神を生じさせます。この神が守護するときは、どのような賊邪も人身を侵すことはできません。しかしこの腎間の動気が衰えるときは、この神の守護も強固ではなくなり、病気になります。また、この腎間の動気が絶するときは、神は人身を去っていきます。これが死ぬということです。」と。


問いて曰く。神は心に舎ると言われています。しかしここでは反って腎間に舎るというのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。神が腎に舎って海底に潜む龍のように沈黙しているのは神の体〔訳注:本体〕です。心に出て雷動するのはその用〔訳注:機能〕です。諸神は腎間に舎って寂然として不動のまま、五臓に応じ四肢百骸にその力を及ぼし、さらには遍く天地万物の情に通じます。つまり腎間の場所は人身の太極なのです。これは北極星がその場所を動くことなく、他の星々がその周りを回っているようなものです。






ですから、気は人の根本なのです。この根が絶するときはすなわち茎葉も枯れます。


上文を結んでいます。「気」とあるのは上文における動気・生気を結んで語ったものです。「人」とあるのは上文における臓腑・経脉を結んで語ったものです。人はその形について言えば陰です。気は形がないときは陽です。陽は陰に舎って陰の根となります。ですから陽である気が絶するときは陰である形が斃れるということになるのです。これは草木の根が切られるとその茎葉も枯れてしまうことと同じことです。《内経》に、内に根ざすものを神機と言い、神が去るときはすなわち機〔訳注:機能〕も止まるとあるのもこの意味です。






寸口の脉が平であるのに死ぬものがあるのは、生気が独り内で絶するからです。


最初の問に合わせています。「内」とあるのは腎間です。腎間の動気が腎中で絶している状態を言っています。


師は言われました、「寸口の脉が平であるのに死ぬものは、根のない草木にたとえることができます。その茎葉はしばらくの間は枯れなくとも結局は枯れてしまいます。」と。私は思うのですが、草木を切って花器に活けるとき、水の栄養によって数日間は枯れないでいます。人の場合も同じことで、先天の気はもう絶していても、後天の気がまだ尽きてはいないために数ヶ月間は生きているものがいるのではないかと。


問いて曰く。一難に、寸口は死生を決すと言っていますが、ここでは寸口が平のままで死ぬと言っています。これは矛盾しているのではないでしょうか。

答えて曰く。一難の内容については至れり尽せりに丁寧に説明されています。しかしその目的は、脉状によって死生を診察するということです。この難では脉状を離れ、生気に本づいて死生を知る方法について説明されているのです。これこそが八十一難の眼目であり医学を活物となせる場所です。脉状には様々な種類がありますが、その目的はただ元気を察するということにあります。その形〔訳注:寸口の脉〕を診察して元気の状態を知るのが常法です、形は言葉で表わすことができるからです。気〔訳注:生気:腎間の動気〕を診察することによってその元気の状態を知るのは変法です、気は言葉で表現し難いからです。この変法を理解するということは知るという行為の極みです。無能な人間は、形に拘わって本原を理解していません。それは、月を指差す指に把われて月を見ないようなものです。そのような人物は、一生影を追い続けて何一つ益を得ることができないままに終わります。


問いて曰く。生気が独り絶するとき、その原因を知ることはできるのでしょうか。

答えて曰く。人が死ぬ場合、陰形が先に絶する場合と、陽気が先に失われる場合とがあります。生気が独り絶するという場合は、陽気が先に失われて陰形だけが残っている状態で、その原因は一つではありません、労役・憂鬱・驚恐・房欲・飢飽・賊邪・穢悪の気に触れることなどによって、突然真陽が暴塞暴絶されたために、このような証候を呈するのです。


問いて曰く。《難経》で、腎間の動気を心神よりも尊重する理由は何なのでしょうか。

答えて曰く。心は神智の主ですけれども、人の生死という緊急の場合に関わることはありません。ですからその神智は平常のようであってもその元気が亡びたものは死に、神智は昏塞顛倒した〔訳注:暗く塞がり混乱している〕としてもその元気を失わないものは生きます。《難経》では死生を決定するものは何なのかということが中心であり、神智の賢愚を論じているわけではないからです。


問いて曰く。腎間の動気を診察する方法はあるのでしょうか。

答えて曰く。臍下を按ずると微かな動気が手に感じます。その動気の打ち方は寸口の打ち方と響き合うような感じで、その速度も同じです。このことから寸口の脉動が腎気の発動によって起こっているということを理解することができます。臍下を按ずると堅かったり痛んだりするものは、腎の病です。これは十六難に記載されている通りです。臍下を按じて堅かったり痛んだりせず、充実和緩〔訳注:充実して和やかに緩んでいる、生気の満ち溢れた状態〕で手に応えるように微かに動気を打ち、あるようなないような感じのものは平人〔訳注:健康人〕です。これは細心の注意力をもった人でなければ察知することができません。しかし、腹診という方法は、高貴な人や婦女等には施し難いものです。ですから腎間の動気を察知しようとするなら、望診聞診を常々怠ることなくし、その中で自然に精義神に入るの妙〔訳注:微妙な技術が手中のものとなった素晴らしい状態〕が現われることになるでしょう。扁鵲公が桓公を望診によって診断したものなどがこの類です。


臍下は、丹田・気海・陰交の領分の場所です。このすべてに動気があり、陽気の海・陰血の交わり・人身の陰陽の根本・錬丹延齢〔訳注:錬丹することによって長寿を達成すること〕の福田〔訳注:素晴らしい場所〕がここです。道家は精和〔訳注:精微な和気〕を呼吸してこの内丹を錬り、天地の精華の全てをここに集めて仙骨〔訳注:仙人の骨相・非凡な姿〕を作ります。また、丹田という場所はもともと肥沃な場所ですので、子供を宿すことができるのです。父の精は種を下し、母の血は肥沃な大地であり、子供は果実で、胞衣は花や葉が果実をくるんでいるような状態であると言えます。また、臍は〔訳注:子供という〕果実の蒂〔訳注:へた〕が付くところです。果瓜〔訳注:果実〕が生ずる場所には全て柎蒂〔訳注:花の房の元のへた〕があります。人が生ずる場合もまた臍蒂があり、それが根となります。ですから臍は人身における上下左右の中央にあり、四肢百骸の枢紐〔訳注:身体の中心となる場所〕となり、人身の北極に象るのです。この場所が生気の原であるということもまた納得のできるところです。この守邪の神は最も貴いものなので、その郷であるこの場所を尊称して、神闕・中極・気海・陰交・石門・丹田と名づけています。これらは皆な元神の宮を意味しています。



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