《難経鉄鑑》について
《難経鉄鑑》の序にもあるとおり、著者 広岡蘇仙は、1729年、江戸時代の享保年間にこの書を書き上げていますが、その後も書物として世に出ることはなく、やっと1750年になってから弟子たちの懇願によって刊行されています。
彼の師は井原閲という人物で、京都において難経を中心とした講説を広めていたということです。広岡蘇仙は1713年に初めてその教説に触れ、それから16年かかってこの書をまとめたことになります。
当時の江戸の医学界は古方派の黎明期にあたり、中国から輸入された医学思想がようやく日本に定着し消化されていった時期でした。あの管鍼法を発案した杉山和一が関東総検校になったのが1694年であり、それと前後して岡本一抱子や名古屋玄医が多くの注釈書を出版しました。本郷正豊がかの《医学日用綱目》を出版したのもこの頃、1709年であり、また貝原益軒が《養生訓》を著したのが1713年です。
さらに同じ本郷正豊が有名な《鍼灸重宝記》を刊行したのが1749年になりますから、その翌年にこの《難経鉄鑑》が出版されたことになります。また古方派の泰斗である吉益東洞が《類聚方》を著したのが1751年、刊行されたのが1765年ですから、古方派が広く行なわれる以前の時代に広岡蘇仙は生きていたことになります。
また中国では、徐大椿が有名な《難経経釈》をこのころ著しています(1727年)。この《難経鉄鑑》の独創性は、当時の中国の難経研究をはるかに凌駕し、また現代中国の《難経》研究をも超越した、普遍的な視平を当時すでに切り開いていたと、訳者は判断しています。
この《難経鉄鑑》の特色は、儒仏道三教を、一つの真理を説くものと把えてそこから自在に引用して深い理解を与えようとしているということと、易の数理を用いて《難経》の真義を把握していこうとする姿勢にあると言えます。
さらに彼の観点の素晴らしいところは、巻の首の終語『人身における一原気とは、道が一を生じ、易に太極があるようなものです。 』という言葉に端的に現われています。《難経》とはこの一元気について説き明かした書物であると喝破し、その観点に立って《難経》を解釈していこうとしているのです。このような姿勢を中島玄迪は序の中で、『井原先生亡き後、その説を継承した者がいるという話を聞いたことがなかったが、それは蘇仙兄であったか、と。兄は、先生の説をよく理解していただけではなく、その説を発展させ、まだ説き明かされていなかった部分を説き明かし、ここに明確に、腎間の原気を説き尽したのである。兄こそは、百尺竿頭の一歩を進め〔訳注:工夫の上に工夫を凝らし〕、急流中を勇退した人〔訳注:無理せず確実な判断のできる人〕である。』と、広岡蘇仙を兄と呼んで絶賛しています。
このような書物である《難経鉄鑑》の訳出をする機会を与えられて訳者は望外の喜びです。とともに、誤訳や意をつくせなかった部分が多々あるのではないかと、密かに恐れるものです。読者にあられましては、誤りや不明の点などを発見された方はどうか遠慮なく叱正ご教示下されることを、伏してお願い致します。
1996年10月10日
訳者 伴 尚志 謹識