難経原文 四



二十八難に曰く。奇経八脉なるものが、十二経に拘わらないのであれば、それらはどこから起こってどこに継いでいくのでしょうか。

然なり。督脉は下極の兪に起こり、脊裏に並び、上って風府に至り、入って脳に属します。

任脉は、中極の下に起こり、毛際に上り、腹裏を循り、関元に上り、喉咽に至ります。

衝脉は気衝から起こり、足の陽明の経に並び、臍を夾んで上行し胸中に至って散じます。

帯脉は季脇に起こり、身を廻って一周します。

陽蹻の脉は跟中に起こり、外踝を循って上行し、風池に入ります。

陰蹻の脉もまた跟中に起こり、内踝を循って上行し、咽喉に至り衝脉に交わり貫ぬきます。

陽維脉と陰維脉とは全身を維絡します。溢畜しますから、諸経に環流し潅漑することはできないものです。ですから陽維脉は諸陽の交会に起こり、陰維脉は諸陰の交会に起こります。

聖人は溝渠を図設しましたが、溝渠が満溢すると深湖に流れます、ですから聖人も拘わり通じさせることはできないと例えています。人においてその脉が隆盛であれば、八脉に入って環周することがありません。ですから十二経もまたこれに拘わることはできないのです。

その脉が邪気を受けて畜るときは腫れて熱します。砭でこれを射すわけです。





二十九難に曰く。奇経が病んだ場合どのようになるのでしょうか。

然なり。陽維脉は陽を維し、陰維脉は陰を維します。陰陽が自ら相い維することができなくなると、悵然として志を失い、溶溶として自ら収持することができなくなります。陽維脉の病は、寒熱に苦しみます。陰維脉の病は、心痛に苦しみます。

陰蹻脉の病は、陽が緩み陰が急となります。陽蹻脉の病は、陰が緩み陽が急となります。

衝脉の病は、逆気して裏が急となります。

督脉の病は、脊強り厥します。

任脉の病は、内に結を苦しみます。男子は七疝となり、女子は瘕集となります。

帯脉の病は、腹満し腰が溶溶として水中に座っているような状態になります。

これが奇経八脉が病んだ場合の状態です。





三十難に曰く。栄気の循環はいつも衛気に隨っているものなのでしょうか、そうではないのでしょうか。

然なり。経に、人は気を穀から受けます。穀が胃に入ると五臓六腑に伝与され、五臓六腑が皆な気を受けます、とあります。

その清なるものを栄とし、濁なるものを衛とします。栄は脉中を行き、衛は脉外を行きます。栄は周って息むことがなく、五十回してまた大会します。陰陽が互いに貫きあい、環の端がないような状態です。

ですから栄衛が互いに隨っているということが理解できます。





三十一難に曰く。三焦はどこから稟け、どこに生じ、どこに始まり、どこに終るのでしょうか。またその治療は、いつもどの場所にあるのでしょうか。このことは明確にすることができるでしょうか、できないでしょうか。

然なり。三焦は水穀の道路であり、気の終始する所です。

上焦は心下の下膈にあり、胃の上口にあります。内れて出さないことを主ります。上焦を治療する位置は膻中にあります。玉堂の下一寸六分で、両乳の正中で陥なる場所がそれです。

中焦は胃の中脘にあり、上でも下でもなく、水穀を腐熟することを主ります。中焦を治療する場所は臍の傍らにあります。

下焦は膀胱の上口にあたり、清濁を分別することを主ります。出して内れず伝導することを主ります。下焦を治療する場所は臍下一寸にあります。

ですから三焦と名づけます。その府は気街にあります。





三十二難に曰く。五臓ともに等しいのに心・肺だけが膈上にあるのはどうしてなのでしょうか。

然なり。心は血であり、肺は気です。血は栄とし、気は衛とし、相い隨い上下します。これを栄衛と言います。経絡は通行して、外に栄周します。

ですから心・肺を膈上に存在させているのです。





三十三難に曰く。肝は青く木に象り、肺は白く金に象ります。肝は水を得て沈み、木は水を得て浮かびます。肺は水を得て浮かび、金は水を得て沈みます。この意味は何なのでしょうか。

然なり。肝は純木ではありません。乙は角であり、庚は柔です。大きく言えば陰と陽と言え、小さく言えば夫と婦と言えます。その微陽を釈ててその微陰の気を吸います。その心は、金を楽しみますので、陰道を行くことが多くなります。ですから肝は水を得ると沈むのです。

肺は純金ではありません。辛は商であり、丙は柔です。大きく言えば陰と陽と言え、小さく言えば夫と婦と言えます。その微陰を釈てて婚して火に就きます。その心は、火を楽しみますので、陽道を行くこと多くなります。ですから肺は水を得ると浮くのです。

肺が熟するとまた沈み、肝が熟するとまた浮かぶ理由は何なのでしょうか。

だから判るのです。辛は当に庚に帰すべきであり、乙は当に甲に帰すべきであるということが。





三十四難に曰く。五臓にはそれぞれ声色臭味があります。この全てを明確に知ることができるでしょうか、できないでしょうか。

然なり。十変として言いましょう。

肝は、色は青く、その臭は臊、その味は酸、その声は呼、その液は泣です。

心は、色は赤く、その臭は焦、その味は苦、その声は言、その液は汗です。

脾は、色は黄、その臭は香、その味は甘、その声は歌、その液は涎です。

肺は、色は白く、その臭は腥、その味は辛、その声は哭、その液は涕です。

腎は、色は黒く、その臭は腐、その味は鹹、その声は呻、その液は唾です。

これが五臓の声色臭味です。

五臓には七神があります。それぞれどこに蔵されるのでしょうか。

然なり。臓は人の神気を舎し蔵する場所です。

ですから、肝は魂を蔵し、肺は魄を蔵し、心は神を蔵し、脾は意と智とを蔵し、腎は精と志とを蔵するのです。





三十五難に曰く。五臓それぞれに腑とする所があり、皆な互いに近い場所にありますが、心肺だけが大腸小腸からの距離が遠いのはどうしてなのでしょうか。

然なり。経に、心は栄であり、肺は衛であり、陽気を通行するものなので、その場所は上にあり、大腸・小腸は陰気を伝えて下るものなので下にあるとあります。ですから互いの距離が遠いのです。

また諸腑は皆な陽ですから、清浄の場所であるはずです。けれども、大腸・小腸・胃と膀胱とは皆な不浄なものを受けています、その理由は何なのでしょうか。

然なり。諸腑に対してこのようなことを語ること自体間違っています。経に、小腸は受盛の腑であり、大腸は伝瀉行導の腑であり、胆は清浄の腑であり、胃は水穀の腑であり、膀胱は津液の腑であるとあります。ひとつの腑に二種類の名前はありません、ですからこのような言い方が間違っていることがわかります。

小腸は心の腑であり、大腸は肺の腑であり、胆は肝の腑であり、胃は脾の腑であり、膀胱は腎の腑です。

小腸は赤腸といい、大腸は白腸といい、胆は青腸といい、胃は黄腸といい、膀胱は黒腸といい、下焦が治める所です。





三十六難に曰く。臓はそれぞれ一つあるだけですが、腎だけに二つある理由は何なのでしょうか。

然なり。腎に二つありますが、その両方が腎なのではありません。その左にあるものを腎とし、右にあるものを命門とします。

命門は諸神精の舎る所であり、原気の繋る所です。男子はここに精を蔵し、女子はここに胞を繋ぎます。

ですから、腎が一つであることを知ることができます。



一元流
難経研究室 前ページ 次ページ 文字鏡のお部屋へ