未病を治す



先日たまたまテレビを眺める機会があり、養命酒が未病について語っているのを目にしました。その時は「ずいぶん変なことを言うなぁ」ちゃんとした東洋医学者に指導を受けているのだろうか。と感じただけだったのですが、日を追うごとに心に澱のようなものがたまっていきます。これはこのまま放置しておいてはいけない。東洋医学について深い誤解が生じる元となる。という思いがつのってきたわけです。ところが時すでに遅く、何が述べられていたのかすっかり忘れてしまっていました。そこで思いついて、インターネットで検索してみることにしました。便利になったものでですね。見つけたページのアドレスは以下。

http://www.yomeishu.co.jp/health/index.html

そこにはこのように書いてあります。

「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「

【未病】
病理概念のなかに「未病」という
言葉があります。病気ではないけれど、
病気へ向かっている状態のこと。〔伴注:ここには赤線が引いてある〕
例えば、手足の冷えや体の疲れ、胃腸の不調。
それは病気のサインかも知れません。
」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」

養命酒が話題提供をしてくれたわけですけれども、それは別としても未病の概念は、東洋医学の基本認識にかかわるものです。そこで、一元流鍼灸術における未病の概念をまとめておくことにします。

未病の概念は、その人間が生きて病み老いて死ぬということをどのように捉えているのかということとかかわってきます。未病という言葉は、そのまま訳すと、未だ病まずとなりますので、すなわちまだ病気ではない状態であると考えやすいものです。けれども、よく考えてみると病んでいない人間は有り得ません。人間は弱いものです。どのような人間も死を逃れることはできませんし、死ぬためにはその手前で何らかの問題が起こるのは当たり前のことです。

この死という決定的な事件が起こる以前に、人間はある繊細なブレ〔伴注:すなわち非健康状態〕をさまざまに繰り返します。死を避け体内に蓄積されている矛盾を解決しながら生きているわけです。食べればお腹がいっぱいになり、便意を催し眠くなるという、この一連の生理的な流れとみえるものも、実は身体に解消できる程度の無理を与えることによって身体を養っているものです。このようにして人間はその一生を通じて、生命を維持しているわけです。

ですから東洋医学的な治療とは、この繊細なブレをなくすことではなく、その繊細なブレに上手に対処できる手助けをすることです。それによって自然治癒力が働きやすくなり、いざとなったときのために余力を蓄え、危機的な状況が起こった場合に、それを乗り越えることができるようにするわけです。

ですから、東洋医学において未病を治療するということの意味は、身体のバランスが大きく崩れる以前の繊細なバランス状態を維持し、回復しやすい身体を作ること。すなわち、より敏感でより器の大きなな身体を作ることになります。より敏感な身体を作るということになりますので、症状は出やすくなるかもしれません。けれどもそこをすばやく経過することによって、深い病の基を体内に作らない、溜めこまない、ようにしていくことができます。

ですから、一元流鍼灸術において「東洋医学は未病を治す」という言葉を解説すると、

東洋医学では病気と思われるときでも健康と思われるときでも常によりよい身心状況を作り上げることを目標としており、このことを「東洋医学は未病を治す」と表現しています。よりよい身心状況とは、外界の刺激を取り入れることのできる大きな器を持ち、強いストレスを敏感に排除し、生命を防御する機能を高めることです。

という表現になります。

「未病」というのは病理概念ではなく実は生命のありようすなわち東洋医学的な生命観を示しているものです。それを未病と表現することによって、体質改善を促す際、病になる以前に自らの生活習慣に気をつけようという呼びかけであり、症状が出るか出ないかにかかわらず生命力を向上させるための指導をしなくてはいけないよという治療家への指示となるわけです。養命酒のホームページで語られている「病気ではないけれど、病気へ向かっている状態のこと。」という言葉が、いかにいかがわしいものかご理解いただけると思います。人間には完全な健康状態というものはなく、また完全に病的な状態というものもないものなのです。いつもその生命の器の上で揺らぎながら生きているのが本来的な人間の姿なのですね。

先生が日記〔注:上に転載してあります〕で、養命酒のコマーシャルで語られる未病についてお話なさっていらっしゃいましたね。実は私もあのコマーシャルをみて、『あれれ?』と感じたひとりです。

あのコマーシャルを読んで2つの疑問があります。

1)そもそも、未病の概念は、いったい歴史的にいつごろ、どういう経緯で出されたものか?

2)東洋医学的生命観における、未病について

このトピックスや、『東洋医学で人を診る』という観点においては、2)を中心として語るべきと思っておりますが、1)に関しては、私の常々の疑問なのです。『東洋医学で人を診る』という観点をきちんと持てば『未病』という概念を引っ張り出さずともいいのではないかと。でも、患者さんに説明するときには便利な言葉だなと思うのです。

先生、いかがでしょうか?

未病の概念は、東洋医学の大本である『黄帝内経』から出ています。

『黄帝内経:素問:四気調神大論』には、「聖人は、すでに病になっているものを治すのではなく、未病を治〔伴注:まだ病んでいないものを治〕します。」とあります。

また『素問:刺熱編』では、「腎熱の病のものは、頣(おとがい)が先に赤くなります。病がまだ出ていなくともこの赤色が現れている場合にはこれに鍼を刺します。これを名づけて未病を治〔伴注:まだ病んでいないものを治〕すと呼んでいます。」とあります。

古典、東洋医学で語るところの未病

『黄帝内経:素問:四気調神大論』には、「聖人は、すでに病になっているものを治すのではなく、未病を治〔伴注:まだ病んでいないものを治〕します。」とあります。

また『素問:刺熱編』では、「腎熱の病のものは、?`縺iおとがい)が先に赤くなります。病がまだ出ていなくともこの赤色が現れている場合にはこれに鍼を刺します。これを名づけて未病を治〔伴注:まだ病んでいないものを治〕すと呼んでいます。」とあります。

黄帝内経で語るっているところをもう少し考えて見ます。


「聖人は、すでに病になっているものを治すのではなく、未病を治〔伴注:まだ病んでいないものを治〕します。」とあり、

その未病の治し方としては、「腎熱の病のものは、頣が先に赤くなります。病がまだ出ていなくともこの赤色が現れている場合にはこれに鍼を刺します。これを名づけて未病を治す」とあります。』


腎熱の病に対してオトガイの先の色に鍼をする。これを未病を治すというと。

つまり、未病を治すというのは、『病を得る』段階の前に、その『病の兆候』の段階での 治療をすると。

人間に対して、『病になった』状態と、『病が色に出た』状態と、これは 同じ病の段階の違いに過ぎないと語っているのではないでしょうか?

腎の病へ傾きかけている人間がいる。
ほんの少しの兆候の段階も
腎の病を得た状態も
同じ腎の病へ傾いている状態であると。

わかりやすくいえば、症状として腎の病がでていなくても、出ていても、
腎の病としての傾きは同じであり、アプローチも同じ。
腎の病になるまえに、腎の病の傾きのある人間に腎の病の治療をすることを
未病を治すといっているのではないかと。

以前に、私が八味地黄丸を飲んでいるということに対して 『病気でないのに、薬を飲むのはいかがなものか』とのご意見をいただいたことが あります。

これにたいして、今答えがみえました。

私は、腎の病を得ているわけではないけれど、腎の病の兆候はあります。

そしてこの段階で腎の病を得ている人と同じ八味地黄丸を飲むことは、

『未病を治す』ことになるのだと。

先生、いかがでしょうか。

未病を治すというのは、一般的な養生指導ではなく、その人の体質状態を四診し、

見通しをもった治療(や養生指導)に対する言葉であるということではないでしょうか?

東洋医学の世界では、個別具体的に病を診る観点で、未病の段階でも対応していくことが

可能であるということなのではないかと理解しました。

これでどうだああ~!

>わかりやすくいえば、症状として腎の病がでていなくても、出ていても、
>腎の病としての傾きは同じであり、アプローチも同じ。
>腎の病になるまえに、腎の病の傾きのある人間に腎の病の治療をすることを
>未病を治すといっているのではないかと。

そのとおりですね。

>以前に、私が八味地黄丸を飲んでいるということに対して
>『病気でないのに、薬を飲むのはいかがなものか』とのご意見をいただいたことが
>あります。
>
>これにたいして、今答えがみえました。
>私は、腎の病を得ているわけではないけれど、腎の病の兆候はあります。
>そしてこの段階で腎の病を得ている人と同じ八味地黄丸を飲むことは、
>『未病を治す』ことになるのだと。
>
>先生、いかがでしょうか。

そういうことです。

>未病を治すというのは、一般的な養生指導ではなく、その人の体質状態を四診し、
>見通しをもった治療(や養生指導)に対する言葉であるということではないでしょうか?
> >東洋医学の世界では、個別具体的に病を診る観点で、未病の段階でも対応していくことが
>可能であるということなのではないかと理解しました。

そうです。病を得るというのは、古代においては患者さんの判断によるもので、現代においては検査データによるものです。ところが、検査データに出なくとも病となっている場合もありますし、患者さんが気づかずに病となっている場合もあります。それを見つけて治療していくということを基本的には未病を治すと表現しているわけです。

これは別の言葉で言えば、患者さんの微細な変化に対応して処置を施す技術が確立されているものが東洋医学であるといえるわけです。

弁証論治で病因病理などを考えていると、ここまで体調を崩す前に仕事や食事や睡眠時間などの生活習慣を変えるとか、早めに鍼灸治療などを受けて気をつけるという「一手」手を打っておくとよかったろうに、と思うことが多々あります。けれどもご本人としてはそのときは辛くないわけで、治療を受けるということなど思いもよらないわけです。

その初期段階の微細な変化に気づき、そこに手を打つことができるかどうか。そこに手を打つことができると、何とはなしに大きな問題もなく人生をすごしていけるわけです。あるいは、生活の質が改善され、勉学に励むことができたり、スポーツで活躍することもできるわけです。

病というのは氷山の一角です。氷山そのものを把握する技術が東洋医学にはあります。

【ここ、とても大切なことですね。】

このことをよく考えていくと、スポーツにおける成績の向上に東洋医学は大きな力を発揮するであろうということも理解できるでしょうし、人間の資質を高めるために東洋医学を利用することもできるということに気が付かれるでしょう。







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