気血



この気血という言葉は、「身体丸ごとを場」として、陰陽の観点で診るモノサシとして「気血」と
いう言葉を使っています。ほかの「場」が違うところで使われた、気や血という言葉とごっちゃに
してはいけません!!これが陰陽で見るときのとーっても大切なことです。

身体丸ごとを場としてみたときに「気血」と言う言葉で何をあらわし、みようとしているのでしょうか。


さて、ここで古典が出てきちゃいます(^^ゞ 、《素問・陰陽応象大論》

『黄帝は述べられました。陰陽は天地の道、万物の綱紀、変化の父母、生殺の本始、神明の府です。
 病を治療する際には必ずその大本を求めなければなりません。陽が積み重なって天となり、陰が  積み重なって地となります。陰は静かで陽は躁がしいものです。陽が生まれれば陰が長じ、陽が
 滅びれば陰も蔵(かく)れます。陽は気に化し、陰は形を成します。』

つまり、身体全身を

 身体全体=気血
 
      |ー気(動かす機能である気になった陽)
 気血 =|
      |-血(身体の形となった陰)の観点からみている
      

形をなぜ血というあたかも人間の血液であるかのように表現するのかというと、血という言葉の なかに、生きている当たり前の流動性をみているからです。形全部、乃ち骨格も、内臓も、皮膚も、 筋肉もすべて「血」で表現しているのは、形が固定的ではなく、生きている中で流動的であるという 観点をもっているからです。このあたり、「血」というと血液だけをイメージしやすいので注意が 必要ですね。

機能と形、それを気血という言葉であらわしています。東洋医学の用語では「体用関係」なんてもいいますね。

全身の気血(つまり身体そのもの)は、臓腑を中心とした内臓の機能によって作られますね。 そして、相対的に気が多い場所や血が多い場所、気血ともにあふれている場所などが身体各所で みられるわけです。機能である気の大きな作用は、「全身を運動させ、暖めること」であり、 形である血の大きな作用は「全身を栄養し潤す」ことと考えられます。ここで全身を栄養し潤すと あるので、あたかも血液とイメージが混同しやすいですが、ここは大きな形全部をいっていることを 忘れないでいただければと思います。

先生、いかがでしょうか?。

私自身書いていて、いちばんひっかかるのは、最後の血のところの「全身を栄養し潤す」という言葉で しょうか。これがどうしても血液と近いですね。ここに形全部のイメージを入れ込むのがちょっと骨かなと。

>私自身書いていて、いちばんひっかかるのは、最後の血のところの「全身を
>栄養し潤す」という言葉でしょうか。これがどうしても血液と近いですね。
>ここに形全部のイメージを入れ込むのがちょっと骨かなと。

そうですね。

けれども気血という言葉を身体という「場」における陰陽関係として把えるならば「形全部のイメージを入れ込む」必要が出てきます。気血を陰陽関係で把える際の血と、血液の血、との混同が古来行われてきているため、このような混乱が生じるわけです。言葉を変えるか概念を変えるか。どちらかを行う必要が出、一元流鍼灸術では概念すなわち血の意味を変えることを選択しています。

もう少し気血から考えてみました(って、しつこい(^^ゞ)

気が「全身を運動させ、暖めること」であり、血は形であり「全身を栄養し潤す」

この、全身を栄養し潤すことと形がイコールであるイメージがとりにくかったのですが、
あっと気がついたことがあります。これってつまり丸ごとひとつの人間を気血という観点から
みているわけで、その人間を見る観点だと。つまり、気と血っていうものがあるのではなく、
人間を見る観点だと。うーーん、いっていることがわかりにくいのですが。形の側面を見るのが
血、動きの側面をみるのが気。で、この二つが取り出してみることができるわけではなく、
一体のものをひとつの側面でみていると。

こう考えると、気血でわけたときの血と血液の血の混同がなぜおかしいかわかります。

先生、いかがでしょうか?

そうなんですね

陰陽論と同じで、気血という陰陽関係を設定するときに、その陰陽する「場」を定めなければなりません。そしてそれは当然、人体ということになります。

人体を一つの場として、気血という対象的な角度から眺めている、これが気血の概念となっているということが大切なところです。このような陰陽概念とは異なる、血管の中を流れる「血」そのものが見えやすいため、古来さまざまな概念の混同がみられるわけです。

このあたりをすっきりと理解できるようになるためには、陰陽とはなにかというあたりからのしっかりした理解が必要となります。(でも、そのような理解ができている人はほとんどいないので、私のような愚者が語らなければならない羽目に陥っているというわけです)

そうなんですねえ。

気血という陰陽関係。

これ人間で考えるから、血液と混同しちゃいますけど、
私のお得意の『ミカン』でも、ミカンを場にして気血で
考えることができます。

ミカンは、人間よりも、少気多血(^^ゞといったところでしょうか?

動きの大きい生き物、たとえばクラゲなんて、人間よりは多気少血かなあ。

ひとつの場を、気血という体用関係で眺めているということなんですね。

1は2を生じ、2は3を生じ、3は万物を生じる。
ちいっとわかってきた気がします。
1も、2も、3も、万物もみーーーんなひとつのくくりを 語ったイコールのもの。診方の観点のおきかたの違いと 考えていいのでしょうか?

人身一小天地っていうことなんでしょうか。

突然「老子」が出るのねε=ε=ε=ε=ε=(o・・)oブーン

『道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負うて陽を抱き、冲気、もって和することをなす。』《老子下篇第四十二章》福永光司氏はこれを『道が「一」すなわち一気を生じ、一気が分かれて「二」すなわち陰陽となり、陰陽の二気が交合して、陰陽の二気とともに「三」と呼ばれる冲和の気となり、その三と呼ばれる冲和の気が万物を生じる。したがって万物はそれぞれに陰の気を背負い、陽の気を抱え込み、冲和の気によって調和を保っているのである。』と解釈されています。《朝日文庫:中国古典選11》

道も、陰陽も、そして第三の気でもあるかのような冲気も、そのすべてがばらばらに個別の存在としてあるかのような解釈がここではされています。

一元流鍼灸術における解釈は違います。混沌として未分の状態(分けられない状態)にあるそれ、無明の闇の中にあるわれわれの認識能力によって、とりあえず一つの場、括りをつかむことが出来たとき、そこのところを「一が生じた」とします。一を生ずるということ、一括りを定めるということは、限りなく大切なことです。その括りの定めを行うことによってはじめて、陰陽五行という物差しを使うことができるからです。

一括りをじっと眺め続け違いを探し、もっとも大きな違い対極となる地点を探し出すこと。これが陰陽の観方です。男女とか光と影とか目立つ対極点を見つけ出しながらそこに取りすがってまた全体を見直してみますと、なんとなく全体の構造が見えてきます。対極点としての陰陽を定めることで微妙なグラディエーションがその一括りの場に存在していることがみえてくるわけです。陰陽を定めてじっと観ていくと、その中間が徐々に明らかになってきます。分けたくても分けれないところ、和合しているように見えるところ、そこが冲和の気と呼ばれる部分です。白と黒という陰陽関係で分けるならば灰色の部分、ぼんやりとしていて分けられないところです。

あえてこうやって分けて理解しようとしていますけれども、陰陽の最先端においても実は純陰純陽は存在しません。全体が冲和の気で満たされているわけです。これが万物の真の姿であるということなんですね。大いなる和合こそが存在なのだとここでは言われているというふうに、一元流では解釈しているわけです。







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