凡例




一、炎帝神農氏は、百草の滋味を察して医薬の法を示しました。その道は本草家の諸書に掲載されて、後世に範を垂れました。軒轅(けんえん)〔訳注:黄帝〕と六臣との問答は、臓腑営衛経絡病能の理義を論じて医術の教えを極めました。その道は内経によって現代まで残っています。このため、後学はこれにしたがってこの道を行うことができるわけです。けれどもまだ解き明かされていない奥旨があり、後人も明確に理解できていないのはどうしてなのでしょうか。

  心は火臓であり肺は金臓であり脾は土臓であり肝は木臓であり腎は水臓であるといったことは、古聖が経に説いているところです。ですから後学は、心は火臓であり脾は土臓であるといったことを記憶して証を弁じ治療を施すわけですけれども、これらはすべて後天を弁じているだけです〔訳注:後付の論を述べているだけです〕。かの心は何によって生じどうして火臓なのかというようなことになると、先天の大道経にもまったく説かれていないことであり、後人もまだ理解していないところです。

  このため私は、医道において常に三臓の弁を設けて、先天の五臓の生ずる理由、五気が相配される源を明らかにして、古聖経論の範囲から完全に出て、医工をこれまで助け導いてきました。けれども至理の深淵なものは筆墨に及ぼしにくく、心ではこれを理解していても、言葉で弁ずることは難しいものです。

  ここのところを言葉でようやく表現できるようになり、門弟がいつも私に聞いていた三臓のことを口授することにしました。これはまことに医道の奥旨、人身の生機です。

  このような口授が長期にわたって伝わると、言葉を間違えて理を踏み外し、無窮であること〔訳注:永遠に続くこと〕ができなくなるのではないかと思いました。そこでとうとう三臓弁解の一書を刊行して、いつまでも範を垂れて人々とともにこの理を広めていくことにしました。

  そうは言っても狭知浅陋で〔訳注:知識も狭く知恵も浅いので〕、岐黄の真風を尽くしてはいないかもしれません。後の君子がこれを改正していただけるようにお願いします。


一、この書で、いろはを用い和語を用いて述べている理由は、私がいつも口授している言葉を用いることによって、この理を理解しやすくして、初学に便利なようにと思ったためです。


一、三焦の補瀉の方剤を附しているのもまた、私の浅薄な管見によって〔訳注:狭く浅い知識によって〕長年潜心講究して自得できたものを記したものです。新説ではありません。すべて経伝の中に求め、引伸触類して〔訳注:さまざまに考え合わせて〕その理を極めたものです。けれどもその是非はまだわかりません。

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