下焦精蔵 第一節 右腎命門




後世に腎命門の名前がありますけれども内経の諸篇においては右腎命門の名前はありません。経中に言われている命門は眼目のことであって右腎の意味ではありません。難経において始めて左を腎とし右を命門と呼びました。けれども右腎命門が相火であるということは言っていませんでした。後世になって、左腎を水に属させ右腎命門を相火としました。この説は全くの誤りです。難経で右腎命門と言っているのは、ただ腎に二つあるもののその呼び名を分けて、右を命門と名付けているだけです。どうして水中の相火がただ右腎にだけ蔵されるということがあるでしょうか。







そもそも相火は龍雷によって波頭が変じた火です。虚空に生じて水湿によって盛んになるものです。天にこの相火がなければ、物を生じることはできません。人にもまたこの相火がなければ生命を保つことはできません。

この火は常に両腎の間に蔵【原注:かく】れて、水源を養い、生気の根となっています。これを腎間の動気と呼びまた命門の火と呼んでいます。八難に生気の原・五臓六腑の本・十二経脉の根・呼吸の門・三焦の原・守邪の神と名付けられているものもまた、両腎の間の水中の相火のことを言っています。ですから三十八難に、三焦は原気の別使と言われているわけです。《刺禁論》で、『七節の傍ら中に小心があります』と述べられているのは、すなわち腎間の動気・水中の命門の火のことを指して言っているものです。七節とは〔訳注:下から〕逆に数え上げて言っているものです。〔訳注:上から〕順に数えるならば、脊の十四椎、腎臓の位置です。小心とは、上焦における真心に対して言っているわけです。腎の両臓はともに水であり、習坎(しゅうかん)〔訳注:水の卦〕の象に応じています。習は重です。陰爻の中に一つの陽爻を含み坎とします。腎間の動気 水中の命門の火はまさに坎中の一陽です。この陽気を指して小心と呼んでいるわけです。すなわち泉源の温かさこそが坎中の陽なわけです。腎間の動気 命門の火こそが「小心」の意味です。

これを下焦の元気と言い・下原と言い・臍下丹田気海の元気と言います。変ずる時は陰火と言い・虚火と言い・虚陽と名付けられています。この火が静かで常であれば、水中に蔵【原注:かく】れて真陰を含育し真気を助けます。変動すると反って陰を消し精を燥かして元気を傷ります。東垣の言うところの火と元気とは並び立たないというのがこれです。元気が壮んであれば、相火はその常を守り盛んにはなりません。相火が盛んであれば、元気はこれによって傷られます。《内経》に『壮火は気を食み少火は気は盛んにする』と述べられているのはこの意味です。

ですから腎は精を蔵して水火陰陽の根となるわけです。その命門の気は男女とも同じ場所にあり、両腎の間に含蔵されます。人の胚胎が生育する道もまたここにあります。誠に腎は人生の大義が属【原注:あずか】る場所です。上古より以来、人仁が連綿と続いて絶えていない理由は、ひとえにこの下焦精蔵によるものです。



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