下焦精蔵 第二十三節 雙胎(そうたい)




雙胎〔訳注:双子〕は、栗に両形【原注:ふたなり】あるようなものだと俗に言われていますが、誤りです。栗の両形は、一方は大きくて完全であり一方は小さくて不完全です。人の雙胎はそうではありません。二胎ともに大小の差がないわけですから、栗の両形と異なることは明らかです。

思うに、この論は淫婦の問題です。淫婦の交接は、一晩に二回の会合があったり、一会の間に男が精を二回泄らしたりします。すると、淫婦の子宮はまた開いて男の精を二回()れることになります。交会の間子宮が開き、男の精がその子宮に入るとすぐに子門が閉塞して再び開くことがないというのが婦人の常道です。淫婦においてはその性が淫らで、強い感情に乗じて子宮がまた開いて男精もまた再び納まりますから、二度の精を蔵し留めることとなり、雙胎ができるわけです。

けれども妊娠する子宮は一つです。雙胎あるいは三胎を孕んだとしても、子宮に二つはありません。一つの子宮であるいは二胎あるいは三胎を蔵するわけです。《医学綱目》に『婦人に雙胎がある理由は、男精が溢れて子宮の両岐に走るためです』と述べられています。これは丹渓のいわゆる子宮に両岐あるという言葉から推測してこの論に至ったものでしょう。もしそうであれば、三胎となるものは、子宮に三宮あるのでしょうか。鳥獣が一度の出産で多くの子を産むような場合も、子宮にたくさんの宮があるというのでしょうか。この言葉が間違っていることは明らかです。鳥獣の類はみなその性が淫らですから、いつも子宮が開いていて何回も精を納れるからです。けれども子宮はただ一つです。これらはすべて常道ではないものです。







雙胎を産んだ場合にその兄弟を決める際、先に産まれたものを弟とし、後に産まれたものを兄と世俗ではします。納得のできることです。始めて会した精胎は子宮の中の奥に胞され、後に入った精胎は子宮の中の前に胞されます。ですからその前のものが先に産まれて奥のものは次に産まれるわけです。このため、第一産を弟とし、第二産を兄とするのはまことに理のあることなのです。



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