上焦神蔵 第十節 神陽位心




人には神と精 気と血との四種類の区別があります。神と精とは右に弁じたように、父の陰精が直接その子の陰精となり、父の心神がその精の中に舎って直接その子の神となります。精はもとより陰 神はもとより陽です。陰は水 陽は火です。人が生まれるということは、父の一滴の精の中に神陽を含んで胎となり、これが「天一水を生じ」「地二火を生ずる」という〔訳注:段階を踏んだ〕ものです。この理については、前の下焦精蔵で弁じたとおりです。

ですから五臓を五行に配する際には、心を火とし腎を水とします。心は神を蔵します。神は父の一滴の精中の神陽すなわち地二から生じた火です。腎は精を蔵します。父の一滴の精がその胎となって子の精となります。すなわち天一から生じた水です。ですから聖人は心を火臓とし腎を水臓としたわけです。

《素問・金匱真言論》に、『人身の陰陽は、背を陽とし腹を陰とします。』と述べられています。膺脇(ようきょう)〔訳注:胸部と脇部〕の肋骨は、脊背(せきはい)〔訳注:背骨と背中〕から()かれて胸に結びます。ですから鳩尾より上は脊背に属して陽部とし、鳩尾より下は背部を離れて腹として陰とします。このため心神の臓は鳩尾より上の胸部の陽の場所に位置し、腎の精蔵は鳩尾より下の腹部の陰の場所に位置します。このことを《霊枢・九鍼十二原》では『陽中の大陽は心です。陰中の大陰は腎です』と述べられています。心は陽臓であり、陽の部位に位置し、腎は陰臓であり陰の部位に位置するわけです。《易》の、火を大陽に取り水を大陰に取るという理ともまた通じるものがあります。

精神がすでに生じると、形体が徐々にここから具わってきます。けれどもこの精神を養うものがなければ、しばらくして絶えてしまいます。このため、神から気が別れ精から血が別れ出て、気血が精神の通路となって、精神をめぐらして養うものとなります。気は神の中から別れ出た枝であり、血は精の中から別れ出た枝であり、気血は用〔訳注:機能〕、精神は体〔訳注:本体〕です。体用は、互いに根ざして離れないものです。用は体から生じますけれども、体用が別れた後は、用が体を養うこととなります。







ある人が聞きました。気は神の枝であり全身に満ちて温めるものです。これを名付けて形気とし肺に属させます。ではどうして肺を金の臓とするのでしょうか。

答えて言いました。肺は気を舎す臓です。気は神陽の中から別れ出て、しかもその用は陰に属します。どうしてかというと、たとえば沸騰しているお湯の熱気も人の息で吹くとすぐ冷め、冷やすことができます。あるいは漆器に呼吸を吹きかけると、そこに露液を結んで潤わすことができます。また、息が吹き出るところを見ると白色です。これらはすべて陰の用です。ですから気は神陽の中から出ていますが、その用は陰に応じているわけです。《易》に、陽中の陰を少陰とするとあり、また《易》に、金を少陰とするとあります。まさに気は神という陽の中から出た少陰なのです。肺はこの陽中の少陰である気を蔵するため、聖人は肺を金の臓としたわけです。

血は精の中から別れ出た枝であり、全身に満ちて潤わせ、肝に蔵されます。肝はまたどうして木の臓とされるのでしょうか。血は精という陰の中から別れ出たものですけれども、その用は陽に応じています。どうしてかというと、陰は静であり動かないもので、動くものは陽とします。血は陰精の枝ですけれども、十六丈二尺の経脉に従って全身を昼夜五十回運行し、その流行は少しの間も止まることがありません。また血は赤くて陽の色であることを見れば、すべてが陰に属するものではありません。ですから血は陰精の中から出ていますが、その用は陽に応じているわけです。《易》に、陰中の陽を少陽とするとあり、また《易》に、木を少陽とするとあります。血は、陰精の中から出た陽であり、陰中の少陽なのです。肝はこの少陽である血を蔵するため、聖人は肝を木の臓としたわけです。

このようにして肺心肝腎四臓は四行に配されます。脾が土に属する理由については、中焦穀府の弁の中で述べています。



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