人には神と精 気と血との四種類の区別があります。神と精とは右に弁じたように、父の陰精が直接その子の陰精となり、父の心神がその精の中に舎って直接その子の神となります。精はもとより陰 神はもとより陽です。陰は水 陽は火です。人が生まれるということは、父の一滴の精の中に神陽を含んで胎となり、これが「天一水を生じ」「地二火を生ずる」という〔訳注:段階を踏んだ〕ものです。この理については、前の下焦精蔵で弁じたとおりです。
ですから五臓を五行に配する際には、心を火とし腎を水とします。心は神を蔵します。神は父の一滴の精中の神陽すなわち地二から生じた火です。腎は精を蔵します。父の一滴の精がその胎となって子の精となります。すなわち天一から生じた水です。ですから聖人は心を火臓とし腎を水臓としたわけです。
《素問・金匱真言論》に、『人身の陰陽は、背を陽とし腹を陰とします。』と述べられています。
精神がすでに生じると、形体が徐々にここから具わってきます。けれどもこの精神を養うものがなければ、しばらくして絶えてしまいます。このため、神から気が別れ精から血が別れ出て、気血が精神の通路となって、精神をめぐらして養うものとなります。気は神の中から別れ出た枝であり、血は精の中から別れ出た枝であり、気血は用〔訳注:機能〕、精神は体〔訳注:本体〕です。体用は、互いに根ざして離れないものです。用は体から生じますけれども、体用が別れた後は、用が体を養うこととなります。
ある人が聞きました。気は神の枝であり全身に満ちて温めるものです。これを名付けて形気とし肺に属させます。ではどうして肺を金の臓とするのでしょうか。
答えて言いました。肺は気を舎す臓です。気は神陽の中から別れ出て、しかもその用は陰に属します。どうしてかというと、たとえば沸騰しているお湯の熱気も人の息で吹くとすぐ冷め、冷やすことができます。あるいは漆器に呼吸を吹きかけると、そこに露液を結んで潤わすことができます。また、息が吹き出るところを見ると白色です。これらはすべて陰の用です。ですから気は神陽の中から出ていますが、その用は陰に応じているわけです。《易》に、陽中の陰を少陰とするとあり、また《易》に、金を少陰とするとあります。まさに気は神という陽の中から出た少陰なのです。肺はこの陽中の少陰である気を蔵するため、聖人は肺を金の臓としたわけです。
血は精の中から別れ出た枝であり、全身に満ちて潤わせ、肝に蔵されます。肝はまたどうして木の臓とされるのでしょうか。血は精という陰の中から別れ出たものですけれども、その用は陽に応じています。どうしてかというと、陰は静であり動かないもので、動くものは陽とします。血は陰精の枝ですけれども、十六丈二尺の経脉に従って全身を昼夜五十回運行し、その流行は少しの間も止まることがありません。また血は赤くて陽の色であることを見れば、すべてが陰に属するものではありません。ですから血は陰精の中から出ていますが、その用は陽に応じているわけです。《易》に、陰中の陽を少陽とするとあり、また《易》に、木を少陽とするとあります。血は、陰精の中から出た陽であり、陰中の少陽なのです。肝はこの少陽である血を蔵するため、聖人は肝を木の臓としたわけです。
このようにして肺心肝腎四臓は四行に配されます。脾が土に属する理由については、中焦穀府の弁の中で述べています。
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