第十八節 脉神




《霊枢・本神篇》に、『心は脉を蔵します。脉は神を舎します。』と述べられています。心は右に弁じたように、南方の大陽の離火であり、離中の一陰は心血を生じます。ですから心は血脉を蔵すとし、その血脉の中に神を舎すとされているわけです。

人身の脉動は何がそうさせているのでしょうか。一説に言うことには。地中を流行する水が岩石などに当たると、流水が逆して上がるように、血気が流行する道路において骨節などの障碍するところがあれば、血気はここに行き当たって動ずるものであるとたとえられています。この理には説得力があるように見えますけれども、今ひとつ納得できません。どうしてかというと、骨節の留滞するところ以外にも脉動するところはたくさんあるためです。人身の動脉は血ではなく気でもなく、天神が和するものです。神でなければこのように動ずることはできません。《本神篇》に『脉は神を舎します』と述べられていることからも理解できます。

脉動は神によるものなのです。神は全身の主人です。ですからこの脉動を用いることによって、有余不足 陰陽邪正を候うことができるとされているのです。いやしくも神化によって動じるのでなければ、内外の気がその動に応じて明らかになることはありません。ですから《決気篇》に『何を脉というのでしょうか。岐伯が答えて言いました。営気を壅遏(ようあつ)して逃げ場所をなくしたものを脉と言います』と述べられています。ですから脉は気ではなく血でもなく、気血が通じる理由となるものです。水の流れに対する堤防のようなものです。気ではなく血ではないのですから、神でなくて何なのでしょうか。







右に弁じたように、心は神を蔵し、神は全身の主人であり生命の本です。その神が来るところは、父母の両精の中に舎っていますので、《本神篇》に『生の来るところを精と言います。両精が相い搏つことを神と言います。』と述べられているのです。ですから神は精に従って来、精もまた神に従って生を始めるわけです。精神の二つには、標本の別はありません。精神はこの二つがそろっていなければ、物が生じてその生を保つことができないのです。このため下焦精蔵と上焦神蔵を右のように弁じてきたわけです。

養生家はこのことに深く心を究め、精神を愛護し、心腎を保養してください。医者はここにおいて深く心を積み重ねて、心腎両臓を治療の綱維としてください。このようにすれば天年〔訳注:を保つことなく〕夭逝する患いもなくなり、治療における過ちもなくなることでしょう。慎んで軽視しないようにしてください。



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