中焦穀府




中焦穀府とは胃の腑を指して言っています。心神 腎精は先天から稟けたものであり、生を始め生を保つことの根元、人身の肝要であることは右に弁じたとおりです。

そもそも人の生は神に始まります。神は精の中に舎り生をなします。ですから人の生は、神精から生じ、生は神精によって保たれているものです。けれどもただ神精だけで、これを養うものがなければ、神精もすぐに絶えてしまいます。ですから右に弁じたように、神から気が別れ精から血が別れて、気血が精神の道路となって精神を養っているわけです。

母の腹の内にいるときには無情のものであったため、精神はその気血に養われて生を失うことはなかったわけです。けれども、十月を経て生まれ落ちた後は有情のものであって、精神 気血の効用が多くなりますので、気血が不足し精神を養うには足りなくなります。そこで乳哺や水穀が胃に納まって、脾がこれを消化し、消化された水穀の精気が変化して営血となり、その悍気は変化して衛気となって、気血が養われて精神を養うことがでるわけです。

このように後天においては胃の腑がなければ生を保つことができませんので、医家の要とするものは胃の腑ということになります。東垣の李杲はこの理に深く達して、胃の気を愛護しました。その『脾胃論』と『弁惑論』に詳細に胃の気が論じられています。



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