中焦穀府 第十節 宗営衛




宗営衛の理については《霊枢・邪客篇》に(つまびらか)であるとされています。そもそも気血は先天の名です。どうして先天と後天としてその名が異なるのでしょうか。

先天の気血は、後天の水穀が気に化されることによって助けられ養われるものですから、後天の気血は先天の気血とは異なります。ですから後天においては血を営とし気を衛とするわけです。

営衛の二字はもともとは軍家において用いられています。内を営【原注:めぐ】ることを営とし、外を衛【原注:まも】ることを衛と言います。人身の血は脉中をめぐって内を営り、衛は脉外をめぐって皮膚分肉を温めて外を衛ります。ですから営衛と名付けられているわけです。







飲食が口に入り胃に蔵され、相火の熱を用いてこれが消化され、胃中から蒸し出された気はすぐに化して営衛となります。たとえば万物はことごとく地に帰し、天陽は地の外を運【原注:めぐ】って地中のあらゆる万物を剋化し、それを朽ちるべきものは朽ちさせ、生ずべきものは生じさせます。この万物剋化の中において清気は天に帰し、これがふたたび雨露となって地に降ります。万物が化生されて升降が止まらず、天地の生化造育の道が止まらない理由がこれです。人身もまたこのようなものです。皮膚毛髪に至るまで養われて止まることがない理由は、宗営衛の升降が止まらないことによります。

宗気は、飲食が胃に入って、胃の中に始めて蒸すところの気が升って膻中に集まり、呼吸出入の気を助けるものです。これを宗気と名づけているわけです。

営は宗気に後れて発します。宗気は飲食が胃に入って水穀がまだ消化されるより先に、蒸して升るところの気です。水穀がすでに消化され、その糟粕が小腸に伝えられ、津液は胃の中にあります。その津液の中から蒸し出されたところの気液が血脉の中に注ぎ、化して血となって全身を潤し営ります。

衛は、水穀がすでに腐熟されて糟粕となり、胃から下って小大腸に行き、下焦の命門の陽火でふたたびその糟粕の中から蒸し出された悍気です。この気は陽に属し表に達して全身を温めて衛りとなるものです。







ですから宗営衛はともに飲食の微気が化生したものであり、すべて胃の中で消化されてできたものです。宗営衛が胃から始めて発する時にはその色はありません。けれどもこれが先天の気血に流れ入ることによって、気に入るものは白色となり、血に注ぐものは赤色となります。水にはもともと色はありませんけれども、朱色の皿に入れると水は赤くなり、白粉の水は白くなるようなものです。先天の気は自然に白く、先天の血は自然に赤く生まれつきます。その中にこの水穀の精気が注ぎ入ると、血に注いだものの色は赤く、気に交わったものの色は白くなるわけです。

先天の気血と後天の気血は一体で差はありません。地にもともとある海川に雨水が降り入っても、もとからある海川の水と、今降り入った雨水との違いがないようなものです。ですからこれは先天の気血、これは後天の営衛という違いはありません。







人身は精神 気血でその生命を立てると言われていますけれども、後天の水穀が化すことがなければ、その生命を保つことはできません。

先天の生気は神から受け、形は精から成り、その精神を養うものは気血です。その全ての根は神にあり、神は人身の水穀の気味に従います。人の水穀はこの精神を養うために供えられているもの〔訳注:補給されているもの〕なのです。

五行の道においては、金木は水火を助けます。水火の本は火にあります。水が形を生じるといっても、火がなければ不可能です。その火が従って助けとしているものが土です。人の心神は生の本です。精は形の本であり、神は火で、精は水です。ですから、胃土が水穀の気味を用いてこの精神を助け養うわけです。

ですから後天においては中焦穀府ほど貴いものはありません。前にすでに弁じたように、脾胃は心腎よりも貴いものなのです。心腎の両臓は生の本ですけれども、穀気の化がなければ、その神精を保つことはできません。東垣が「元気は胃気の別名」と述べているのは実にこのことなのです。



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