中焦穀府 第十一節 脉別陰陽




脉には陰陽の区別があります。陰とは胃の気がない真蔵の脉のことを言います。陽とは胃の気のある脉を言います。脉に胃の気があれば死なないとします。ですから《玉機真蔵論》に『陽を別つものは病の来ることを知ります。陰を別つものは死生の期を知ります』と述べられています。胃の気の脉とは、和緩濡弱の理があることを言います。《玉機真蔵論》には『脉の弱で滑のものを胃気があるとします』と述べられています。

たとえば番匠(ばんじょう)〔訳注:大工〕が木を削る際、削りだした始めはその木に光沢はありませんが、これに研ぎをかけると量り知れないほどの自然の木色の光沢が出てきます。これは木の精神があらわれたものです。また文字を書く際、能筆の字形と悪筆の字形とでは、その画形は違いはないわけですけれども、悪筆の字形には筆の光沢はなく、能書の字形には量り知れないほどの自然の筆色の光沢が出てきます。これは筆墨の精粋があらわれたものです。

脉に胃の気があるということもまたこのようなものです。脉において光沢があるように、往来が流利して和調し、濡のようで、弱のようで、滑のようなものは、胃の気のある脉とします。蔡西山(さいせいざん)〔訳注:朱子の門人:1135年~1198年〕が言うところの「意志欣欣〔訳注:きんきん:喜び輝いている様子〕として名状しがたいもの」というのは、胃の気の脉意に通じるものです。胃の気を候うという道は、習っても習うことのできないものであり、伝えても伝えることのできないものです。自然と医の心に快く、それを名づけることもできず、その状を言うこともできないものです。これが「意志欣欣として名状しがたいもの」の理です。かの番匠が木を削りだした始めは、光沢がまだあらわれず、悪筆の字形は筆に光沢がないように、ただその本来の脉状だけが見えて胃の気の光沢がないものを真蔵の陰脉とします。これを得るときには死にます、治りません。

世には胃の気の脉の伝がありますけれども、その心は言葉を用いても伝えることができず、文字を用いても示すことができないものです。ここでは初学のためにその概要を弁じました。平常の診脉の間に自得して、自然に理解していくしかありません。



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