下焦精蔵 附 方意




一、四君子湯
二、六君子湯
三、異功散
四、補中益気湯
五、病因の大事
六、毒薬変じて薬となる
七、中焦を本とする



一、四君子湯

四君子湯は中焦脾胃の聖薬です。

中焦の虚を補おうとするとき、どのようにすればよいのでしょうか。まず土地を調和させることでこれを補うようにします。土地が調和しているときは、物化生々することが〔訳注:物が化されて生々すること:万物が生長化収蔵の変転を営むことが〕できます。土地が調和していないときには、物化が生じません。土を調和させるのはどのようにすればよいのでしょうか。

物化生々する地についてよく考えてみましょう。泥土には物が生じません、太陽の温かさを受けない土地には物が生じません、非常に堅急な〔訳注:堅く厳しい〕土地には物が生じません、乾土には物が生じません。ですから、よく潤い よく緩み 温かい太陽を受けて泥湿がない土気に、物がよく生養される〔訳注:生じ養われる:物化生々する〕わけです。







四君子湯の薬品である、人参 白朮 茯苓 甘草の四味は、土気を調和させるものです。

人参の甘温は、中焦の元気を養います。たとえば土地が温かい太陽を受けて物が発生することに似ています。中焦が疲れて胃の気がめぐらないと、脾胃の間に湿気が生じます。これを取り去らなければ、泥土にたまたま温かい太陽があたったとしても、物が生じることはできません。人参の甘温の気は、陰湿に抑えられている中焦の元気を温養させることはできません。そのため白朮で湿を燥かします。また白朮の薬中には油気があって、人参が補うところの元気を保ち泄れないようにします。けれども人参の温と白朮の温とが合わさることによって白朮はさらに湿を燥かし、中焦が乾いて堅くなってしまいます。そこで甘草の甘味を用いるわけです。甘は気を保ち津を集めます。ですから炙甘草の甘によって人参白朮で生じるところの元気をますます保つことができるようにしているわけです。津を集めますので、白朮が湿を燥かしても胃土は乾いて堅くなることはありません。

四君子湯が主る病症は、胃土〔訳注:の気〕が疲れてめぐらず、金肺の気もまたこのためにめぐらず、脾肺両臓の間に濁飲を集めてしまっているものです。このため人参白朮が生じさせる元気をめぐらせ升達させることができません。茯苓で心肺脾の三臓の濁飲を下行させると、中焦の元気が升達する道路が通じて、人参白朮が生じるところの元気を上焦に升達させることができ、胃気下陥の患いがなくなります。

濁飲が降り元気が升達すれば、升降が通じますので、中焦はますます調和が取れます。このようにして、人参は胃気を済け、白朮は湿を燥かし、茯苓は脾肺の濁飲を引き下ろして水湿の塞がるものを水道に泄らさしめ、炙甘草は中焦の気を保ち津を潤して中焦を緩め調和が取れるようにするわけです。太陽の温かさを受け、水湿の泥もなく、潤いがあって、堅く乾いていない土地のようなものです。このよう〔訳注:な状態〕であれば土気が充足しているため、種を蒔くとよく生じます。

右のように中焦の土気を調和させることができれば、脾胃が不足しているものを補益することができることは疑いありません。これは古人の立法の妙意であって、今の人のできるところではありません。

一、四君子湯
二、六君子湯
三、異功散
四、補中益気湯
五、病因の大事
六、毒薬変じて薬となる
七、中焦を本とする



二、六君子湯

六君子湯は、四君子湯に半夏陳皮を加えたものです。四君子湯が主る病症は、土気が疲れて湿気があるものだけです。ですから白朮茯苓で水湿を除けばいいわけです。六君子湯の症となると、脾胃の気が非常に虚して非常にめぐりにくくなっています。このため脾胃の間には湿痰の粘りがあって、これを取り去ることは白朮茯苓ができることではありません。どうしてかというと、白朮は湿を燥かしますけれどもその体に油気があって泄らさず、茯苓は泄らしますけれども、燥かすことができないからです。

粘っているものは燥きにくく泄れにくいものです。ですから半夏でこれを燥かします。半夏が湿痰を燥かす作用は、白朮が湿を燥かす作用とは異なります。白朮の燥は、たとえば湿った紙を陰干しして自然に乾かすようなものです。半夏の燥は、たとえば器の中に粘った濁水があり、これを紙布で拭い燥かすようなものです。

陳皮は辛苦微温です。辛は開き、苦は疎【原注:すか】します。味の辛苦と性の微温とは、相合してよくめぐらすものです。たとえば粘ったものを干し乾かそうとすると、これをかき混ぜてめぐらさなければ、完全に乾き尽させることはできません。

四君子湯に半夏陳皮の二味を加えて、脾虚によって生じているところの湿痰の粘りを燥かし去らせることができれば、白朮茯苓の燥滲の力と合わさって湿痰を退かせ、人参白朮が生じるところの胃気抑鬱の患いがなくなり、中焦の元気をよく生発させることができるわけです。

一、四君子湯
二、六君子湯
三、異功散
四、補中益気湯
五、病因の大事
六、毒薬変じて薬となる
七、中焦を本とする



三、異功散

陳皮の一味には二つの機能があります。一つは半夏と合して粘った痰を去り、一つは人参白朮の補剤と合して補気の助けとなるものです。人参 白朮 甘草は、元気を済け立てますけれども、その気をすべて中焦に保たしめてめぐらすことはできません。ですから陳皮の苦辛でめぐらさなければ、人参 白朮 甘草で生じるところの元気もよく調和させ順行させることができないわけです。六君子湯に陳皮があるのは、たとえば土地が太陽の温かさを受けて、泥水や湿気がなく、しかも乾かずよく潤い、堅硬ではない場所に、微風が吹いて土気を和緩させるようなものです。

このことを深く熟読するとき、四君子湯に陳皮の一味を加えて異功散と名付け、異なる効能が与えられていることもまた、陳皮の一品〔訳注:の特殊性〕にあることが理解できるでしょう。



四、補中益気湯

また東垣(とうえん)李杲(りこう)〔訳注:李東垣:1,180年~1,251年:金元の四大家の一人で補土派の開祖〕は補中益気湯を制しました。これは実に中焦補気の妙剤です。

その方中の人参白朮陳皮甘草は、右に弁じた四君子湯 六君子湯と同じようですけれども、さらに詳しく弁じた後、他の当帰升麻柴胡黄耆の四味を弁じていきましょう。

人参

人参の形は三枝五葉で生じます。三枝は三才に応じ、五葉は五行に応じます。また中央土の五数に適っています。その味は甘くて香美。薬質は潤理細沢で黄色なのは、実に中和不偏〔訳注:中で和していて偏りがない〕の気性を受けたものです。ですから諸草の中でこれだけが、中焦胃元の気を生育させることができます。

また人参は甘いとは言っても重滞する甘味ではありません。その気は美香で烈しくありません。その性は微温でたとえば二三月の気候〔訳注:旧暦〕のようです。この時期は暑くもなく寒くもなく、万物がよく発生します。人参の性は自然にこの気を備えていますから、人の腹に入って胃気を生養する効能があるわけです。

けれども桂枝や附子のような陽気を温補する気性とは大いに異なります。桂枝や附子は直接火を生じて陽気を温養するものです。人参は春気のようであり桂附は夏熱のようです。春は発生の気があり、しかも潤っていて燥かないものです。夏は火によって陽気を生じますけれども、燥いて潤いがありません。ですから人参の味は甘く、気を生じて燥かさないものなのです。このため丹渓(たんけい)〔訳注:朱丹渓:金元の四大家の一人で滋陰降火を唱える:1281年~1358年〕は「人参は陽中の陰を補います」と述べているわけです。

この理には非常に深い意味があります。どうしてかというと、右に弁じたように、人参は胃中の生発の元気を補いますけれども、味は甘く潤いを保ち燥かないということは陽中の陰を補うということです。燥くと気が散じ潤うと気が保たれます。人参は甘くて潤いを保ち燥かすことがないため、元気を補い中焦に保たせるわけです。

実に人参は陽中の陰、補気の聖薬であることが明らかです。

白朮

白朮は蒼朮と同類ですけれども、蒼朮の気は烈しく白朮の気は和やかです。蒼朮は開散の効能があり、白朮は中焦に保たれて開散しません。散ずるときは不足し、保つときは充たします。人参と白朮とが合すると、人参は中焦の元気を補い、白朮は中焦の湿を燥かします。さらに人参が生じるところの元気を保って泄らさないようにすることができるわけです。

中焦は土とします。土泥が湿りすぎているときには、物が化生することができません。中焦の元陽が虚すると、脾胃は自ら湿を生じます。湿があると元陽が爵せられて〔訳注:酒に溺れるように溺れて〕しまい、発生を布く〔訳注:生発の気を全身に行き渡らせる〕ことができなくなります。

実に白朮がなければ人参の補気の効能は盛んになりませんし、人参がなければ白朮の補中の効能は盛んにならないわけです。

炙甘草

参朮二つの微温が合して、これに白朮の燥湿の勢いが加わるため、中焦は反って乾くこととなります。乾くと中気が散じて充実しにくくなりますので、炙甘草の甘を用いて津液を中焦に保たせます。ですから白朮が湿を燥かしても、甘草が津を集めるため、乾燥するまでには至らないわけです。中焦が津を保つことができれば、参朮が生じたところの元気がますます保たれ泄れることがありません。

黄耆

補中益気湯の症は、脾肺の両分の元気が疲弱で、衛気をその外に保つことができません。このため人参 白朮 甘草で元気を化生することができたとしても、肺気が疲れて衛気がその外を衛れないために、元気を中焦に保つことができません。

黄耆は肺気を養い、衛気を囲んで中焦の元気が泄れないようにします。けれども黄耆はもともと肺分の衛気の薬ですから、その薬性は軽く高いところに行き外にめぐってしまって、沈んで中焦を囲うことができません。

ですからこれを蜜水に浸して炙るわけです。そうすると甘味が厚く薬性が重くなって、肺脾の間に衛気を囲んで、元気を泄らしません。これによって人参 白朮 炙甘草で生じたところの元気をますます腹内に充実させることができるわけです。

陳皮

この人参 白朮 炙甘草 黄耆で補渋すると、かえって中気が渋ってめぐりにくくなります。めぐらなければ人参 白朮 炙甘草 黄耆の補気の効能も発揮しにくくなります。ですから陳皮を加えて、補渋しながらその気を順行させるわけです。

このため東垣〔訳注:李東垣:1,180年~1,251年:金元の四大家の一人で補土派の開祖〕は補中益気湯の陳皮の條の下に「諸々の甘薬を得て可。もし独り用いるときは脾胃を瀉す」と述べているのです。これは陳皮の効能を尽くし、陳皮に補瀉の効能があることを示しているものです。

このように語る心は、人参 黄耆 白朮 炙甘草の補渋だけでは中気が順行せず、順行しなければ元気が腹内に満ちることができない。このため陳皮の苦辛を用いて、甘薬で補渋しているところを順行させると、元気を腹内に満たすことができるわけです。

これを、諸々の甘薬だけにしたり、補剤と合用せずに陳皮だけを多用すると、辛苦が中気を開いてしまい、中気が疎【原注:すか】されて、反って中焦脾胃の気を瀉してしまうこととなるわけです。このことを、「独り用いれば脾胃を瀉し、多く用いれば脾胃を瀉す」と述べているわけです。

相互関係

人参 黄耆 白朮 炙甘草の補渋は陳皮によって滞らず、補渋されているので陳皮が中気を瀉してしまうことがありません。

ということは、黄耆は人参を助け、人参は黄耆を助け、甘草は人参 黄耆を助け、人参 黄耆は甘草を助け、陳皮は人参 黄耆を助け、人参 黄耆は陳皮を助け、白朮は人参を助け、人参は白朮を助けて、互いに助け合うことによって胃気生養の妙能を出しているわけです。

丹渓の言うところの一方の薬味を制するということは、たとえば匠師(しょうし)〔訳注:木工職人〕が家屋を作ることと同じです。材木には一つも離れているものはありません。諸木が相互に保ち合い、すべての木が要木〔訳注:大切な木〕となっています。この理を理解できない者は、加減増損して方意を失することとなるわけです。

当帰

当帰はどのような機能なのでしょうか。

気を補うには血を兼ね、血を補うには気を兼ねます。どうしてかというと、気血は太陽と月のようなものだからです。太陽が行けば月が生まれ月が行けば太陽が生まれます。人身における気血もまたこのようなもので、気によって血がめぐり、血によって気が生じます。陰は陽中に下生し、陽は陰中に上生するわけです。

ですから四物湯には川芎が入っていて、血中の気をめぐらし、この湯〔訳注:補中益気湯〕に当帰が入っていて、血を養うわけです。白朮は微温で湿を燥かし、人参 黄耆 炙甘草はすべて微温で、陳皮もまた微温で気をめぐらします。この五味の温が合わさってさらに白朮の燥湿の効能まで出てくると、中焦は乾いて元気を生じることができなくなります。これは土が乾いて物を化生することができないようなものです。このため当帰の血薬で中焦を潤滑させる〔訳注:効能を用いる〕わけです。

ある人が言いました。当帰の潤物を用いなければならないのであれば、そもそも白朮の燥剤を用いなければいいのではないでしょうか。白朮の燥剤を用いなければならないのであれば、そもそも当帰の潤物を用いなければいいのではないでしょうか、と。

この理は当たっているようでまったく間違っています。土が草木を生じる際には乾土には生じず泥土にも生じません。雨露の化を得て土が潤い草木が生化するのです。けれども陰雨が多すぎるときには草木は反って生化しません。

白朮が湿を燥かすのは、泥湿を去るものです。当帰が潤すのは、かの雨露の化です。

当帰と地黄はともに補陰の剤であり、当帰は陰中の陽薬、地黄は陰中の極陰のものです。たとえば黒雲が空いっぱいに満ちて暴雨がひどく降るようなものが地黄です。当帰はそうではありません。たとえば晴天が続いているときに雨が少し降るような感じです。ですから益気において地黄を用いると、その極陰のために生発の陽気が抑鬱させられてしまって、補気の効能が得にくくなるわけです。当帰は陰中の陽であり、補陰といっても補気の害となるほどではありません。

升麻 柴胡

升麻 柴胡はどのような機能なのでしょうか。

柴胡は少陽経に入り、左から升ります。升麻は陽明経に入り右から升ります。ここにもまた深い心があります。人参 黄耆 白朮 炙甘草はすべて中焦に位置して補渋するものです。たまたま陳皮があってめぐらすわけですけれども、腹内の左右上下のすべてにその気を充満させることまではできません。

升麻 柴胡は味は苦く疎【原注:すかす】ものです。その左右を分つのは、南面してこれを言います。肝は木に属して東方に位置します。足の少陽胆は肝の腑です。脾は土に属して西南の間に位置します。足の陽明胃は脾の腑です。柴胡は少陽の経に引き、升麻は陽明の経に引きます。ですから柴胡を用いて少陽の気をくつろがせると、人参 黄耆が生じるところの気が陽明の気とともに右から升提されます。これによって人参 黄耆 白朮 炙甘草の中焦に補渋するところの元気が、左右上下に充足して、腹内に充満するわけです。

人参は元気を生じ、黄耆はこれを囲んで泄らさず、陳皮はこれをめぐらし、白朮は中焦の湿を燥かし、炙甘草はこれを保ち、升麻柴胡は左右をくつろがせて胃気を升提させます。補中益気湯は実に井戸を汲んで水を求め、金を撃って火を生じるような〔訳注:因果関係が明確で効果がすぐに現れる〕処方です。

けれども升麻柴胡の両目は多くしてはいけません。どうしてかというと、升麻柴胡が多いと、人参 黄耆が生じるところの気が左右に泄れて不足してしまい、充満させにくくなるためです。

処方構成

ということで東垣が立方した両目を考えてみましょう。

黄耆 人参 去廬 甘草 以上各五分炙 当帰身 二分 酒で焙る 橘皮 不去白 二分あるいは三分 白朮 三分 升麻 柴胡 以上各二分あるいは三分

これが東垣の妙です。 当

帰は陰中の陽であり、極陰ではありませんので、補気に害はありません。けれどもこの陰が陽を妨げることを恐れて、酒で焙り陰薬の性を減じます。陳皮は気をめぐらして、補気の渋滞を助けます。けれどもその苦辛疎散を用いて、脾胃を瀉してしまうことを恐れます。白〔訳注:陳皮の皮の裏に突いている渋皮〕を留めて薬質を重んじ、疎散の気を緩くして用います。後世このような方の妙を理解しないまま妄りに新方を制して、古方を加減してしまいました。

一、四君子湯
二、六君子湯
三、異功散
四、補中益気湯
五、病因の大事
六、毒薬変じて薬となる
七、中焦を本とする



五、病因の大事

口から入るもので中焦が受けないものは一つもありません。誤薬で適さないものを服すと、中焦の後天の元気を傷り、人の寿命を縮めさせてしまいます。

また最近の人は、方意の深義に通じないまま、ただ書を読んで方の條分の病論に従ってこれを投じています。ですから効果があがることは稀で、過ちがあることが少なくありません。

論というものは方によって発するものです。その方意を理解しないままただ論だけでこれを用いれば、同じようでありながら異なるものとなることを理解していません。ここに似て非なる治療がありますので、その一二を弁じさせてください。







たとえば東垣の益気湯の論に「口乾発熱を治す」と述べられています。口中が乾燥するものは理由としてだいたい五種あります。陰虚して相火が上炎して口乾となるものは、滋陰降火湯がこれを主ります。元気が不足して津液を保つことができずに口乾となるものは、十全大補湯の類がこれを主ります。外邪の表熱が外を閉ざしたため気道がめぐりにくくなって口乾となるものは、七味白朮散の類がこれを主ります。命門の真陽が虚衰し虚火が上炎して口乾となるものは、八味丸の類がこれを主ります。補中益気湯が主治するところの口乾は、中焦の元気が虚して清気が上焦に伝わらず津液もまた上焦にめぐりにくくなって口乾するものです。たとえば鍋の中の湯気が升らないため、蓋の裏に露液がないようなものです。この類も非常に多いものです。

口乾という一症であっても、その原因には数種類あり、治法はそれぞれ異なります。益気湯で口乾を治療することができるという論に拘わって、一概に口乾を治療することができるでしょうか。

発熱にもまた数種類あります。陰虚し火が昂ぶって発熱するものは、知母黄柏の類がこれを主ります。外邪が肌表に鬱して発熱するものは、発散させてこれを治します。下焦の真陽が疲れて虚火が盛んになることによって発熱するものは、肉桂 附子の類でこれを治します。補中益気湯の主治する発熱は、中焦の元気が虚してめぐるべきものがめぐらないために発熱するものです。たとえば夏季の炎暑に道路を歩いても、身体はひどく熱くはなりません。けれども一ヵ所に止まって蹲踞している【原注:うずくまっている】と、ひどく身熱して我慢できません。陽気はもともと熱するものですけれども、よく流行していれば発熱することはありません。もし元気が疲れてめぐらなければ、陽気が一ヵ所に留滞するために鬱して発熱します。このような症は補中益気湯が主治するところです。元気が補われてめぐると、鬱している陽気が散布され、発熱は自然に除かれます。







医がこのような理を理解できずに、ただその論に言うところの発熱という言葉を見て一切の発熱を治療しようとするのは、非常な誤りです。

医として蔵象の来るところを理解せず、病因を明らかにすることができず、薬性や方意の奥に達していなければ、治療効果を上げることはできません。

そのため私は医流三蔵の弁において蔵象を論じ、六十味を講じて薬性を弁じ、内経の抜き書きを撰して病因治療の奥義を弁じました。医家の綱要としてよくよく理解していなければならないことです。

一、四君子湯
二、六君子湯
三、異功散
四、補中益気湯
五、病因の大事
六、毒薬変じて薬となる
七、中焦を本とする



六、毒薬変じて薬となる

俗に言うところの「毒薬が変じて薬になる」というのは信【原注:まこと】のことです。人参や黄耆の類であってもすべて気が偏っています。けれども病んでこれを服すと、その偏った気が病を治して反って平を得ます。それは、一切の病気は皆な偏に属するため、同類相い求めて偏気は偏気を用いることによって平となるだけのことです。剛猛で強勢のある人は、ややもすれば人に害をなすことがあるものですけれども、軍を起こして盗賊を平らげることは、剛猛の強勢のある人でなければ、敵に向かって勝つことができないようなものです。

五穀 五菓 五菜のようなものは、すべて和平のもので、その気は猛強ではありません。ですから病にあたって邪を攻めることはできないのです。たとえば柔弱和順で強勢のない人は、平常においては人を害することはありませんけれども、敵と向かったときに強を敗り堅を平らげることができないようなものです。このように穀食菓菜は、病がないときにはこれを食べて身を調え命を助けますけれども、すでに疾病があるときには毒薬の強勢でなければ平を得ることは反って難しいわけです。

ですから薬は病に従ってこれを用いるものです。病がないのに薬を服したり、軽い病に重い薬を用いたり、病が退いても服薬を止めない場合は、反って胃気を傷り命を損ないます。

今の医はこれらの理を理解せず、病気がすでに退いても服薬を止めないため、もとの病は去っても後反って薬力の余勢が胃気を病ましめて、ついには他症を変生させてしまっていることが少なからずあるわけです。これは医家の過ちです。



七、中焦を本とする

右に條條弁じたところの理に従えば、人身の天年〔訳注:寿命〕を保つことができます。

生命を養うものは中焦穀府、胃中の元気に属します。ですから東垣李杲(りこう)〔訳注:李東垣:1,180年~1,251年:金元の四大家の一人で補土派の開祖〕 丹渓朱彦修(げんしゅう)〔訳注:朱丹渓:金元の四大家の一人で滋陰降火を唱える:1281年~1358年〕は皆な中焦を本としました。病んでこれを治すものは医です。医の施すところのものは薬石です。薬石を受けてこれをめぐらすものは胃気です。胃が虚すれば薬石であっても少しの効果を得ることもできません。ですから雲林の龔廷賢(きょうていけん)〔訳注:16世紀〕は『虚労で補を受け付けないものは死にます』と述べているのです。これは胃気が虚したため、補薬を受けめぐらすこともできなくなったもののことを言っています。

実に中焦穀府は、諸臓の母、諸腑の源、後天の元気の発生の地、精神が養われるところ、気血の(たまわり)て出るところ、営衛の成るところ、生死の別れるところです。養生の士はここを大切にしてください。医術の工はここを大切にし損なうことのないようにしてください。

一、四君子湯
二、六君子湯
三、異功散
四、補中益気湯
五、病因の大事
六、毒薬変じて薬となる
七、中焦を本とする



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