附録 営衛三焦 第一節 営衛の弁




天地の万物を造化するものは、気と水の二つによります。気や水をめぐらせるものは何でしょうか。それは一つの相火です。ですから人身を造化するものもまた気血により、気血をめぐらせるものは三焦の相火によるものとなります。気血は先天の名であって、営衛は後天の名です。右の三蔵で弁じたように、気は神の中から別れ出た枝であって、陽中の少陰です。血は精の中から別れ出た枝であって、陰中の少陽です。先天においては血気を用いて精神を養い、精神がさらに血気を養ってこの身を生育させます。後天においては乳哺や水穀の精気がこの血気を生養するものとまります。

先天の血気は精神から別れ出たまま精神の道路となり、後天における水穀の気はこの先天の血気に流れ入り〔訳注:これを〕養育します。ですから先天の血気と後天の血気とではその質は異なりますのでその名もまた異なります。先天においては血気と呼び、後天においては営衛と名付けているのは、この理由によるものです。

営衛という言葉はもともとは軍家において用いられていたものです。内を(めぐ)ることを営と言い、外を(まも)ることを衛と言います。血は陰です。陰は内を主り営潤します。ですから血は脉中をめぐり内を営順するわけです。これが血を営としている理由です。衛は陽です。陽は外を主って衛護するものです。ですから気は脉外をめぐり外を衛護します。これが気を衛としている理由です。







人の全身は陰陽を以てします。陰陽には五種あります。神 精 血 気 宗気です。精神のことについては三蔵の弁の中で詳細に述べています。血気が精神から別れでたことについてもまた三臓の弁の中に詳細に述べています。

後天において水穀を用いてこの血気を養い営衛とするということについては、《内経》の諸篇に散見されます。《素問・痺論》に『営は水穀の精気です。衛は水穀の悍気です。』と述べられています。《霊枢・営衛生会篇》に『人は気を穀から受けます。穀が胃に入って脉道を通じさせ、血気はすなわちめぐります。』と述べられています。これらはすべて、先天の血気は後天の水穀の気から生じることについて述べているものです。

水穀は口から入って胃に受容され、脾気がこれを消化します。消化された糟粕は、小大腸に行き、精液は泌されて胃にあり、その精液の中から蒸し出されたところの気液は、血脉に注いで営となって全身を潤養します。ですから《営衛生会篇》に『営は中焦に出ます』と述べられているのです。

このため手の太陰肺経の脉はもともとの臓〔訳注:である肺〕から起こらずに、中焦の胃の正中から流れ出るのです。水穀の精液はここから肺経の脉中に注ぎ、手の陽明大腸経に注ぎ、足の陽明胃経に注ぎ、足の太陰脾経に伝わります。このようにして次第に臓腑表裏の陰陽を貫注して十二経を一周し、終にはまた手の太陰肺経に始まって環の端がないように順流して〔訳注:順番に流れて〕止まったり尽きたりすることなく、昼夜で五十回身体をめぐるわけです。

経絡は営衛が流行する道路です。経絡の中は営血が流れ行く道筋です。経絡の外は衛気のめぐるところの道です。営血は流水のようなもので、これが経絡の中を流行するのは、たとえば水が樋に従って流れ行くことに似ています。ですから《営衛生会篇》には『その精気が経をめぐるものを営気とします』と述べられて、《衛気篇》には『その精気の経をめぐるものを営気とします』と述べられているわけです。精気とは水穀の精気を指して言っています。







水穀の精気が胃から発する始めは、ただの気液であって赤いものではありません。これが脉中に注いで先天の血に流れ入ると赤色に変化します。水はもともと赤色ではありませんけれども、朱色の皿に入れると自然に赤くなるようなものです。血はもともと陰です。先天の血色がどうして赤色になるのでしょうか。血はもともと陰ですけれども、昼夜流行する理由は、すべて相火のなすところによるものです。ですから血は陰に属しますけれども相火の色を受けて赤くなっているものなのです。

衛は、水穀が消化された、糟粕の中から出てくる悍気〔訳注:激しい気〕です。胃の中の水穀が消化される間に、その精気は蒸しとられ津液が分泌された後、その糟粕は小腸大腸に下行します。その小腸大腸に下行した糟粕の中からふたたび蒸し出される気を衛気とします。ですから《営衛生会篇》に『衛は下焦から出ます』と述べられているのです。下焦は腎の位置するところであり、腎間の陽気は命門と名付けている相火です。小腸大腸に下行した糟粕は、この相火によって蒸され、悍気がここから発して衛となり、脉外をめぐって表を固め、身体を温める助けとなります。このことを《営衛生会篇》では『衛は脉外にあります』と述べられています。

営衛が水穀から生ずることは、酒を造るようなものです。熟した水穀の中から濾し出される清酒の液はすなわち営です。その清酒を濾し尽した糟粕の中からふたたび蒸し取った焼酎は衛です。焼酎の勢いは非常に悍であって烈しく、もっとも陽のものです。人の飲食は胃に受容されます。その水穀の気味がある間に胃の中から蒸し出された精液は営となります。清酒のようなものです。すでに気味と精液とを蒸し尽くした後にその糟粕が下って大腸に行き、下焦の陽火に蒸されて糟粕の中からふたたび蒸し出されたところの気が衛となります。焼酎のようなものです。始めて胃の中で蒸された精気は液を含んで営となります。後に糟粕の中から蒸されたものは気だけで潤いはありません。潤うものは(くわ)しく〔訳注:精妙で美しく〕陰に属し、潤いがないものは(おぞまし)く〔訳注:猛々しくて強く〕陽に属します。陰は内を主り、陽は外を主ります。ですから経に、『営は水穀の精気とし、脉中を行くとします。衛は水穀の悍気とし、脉外を行くとします。』と述べられているのです。

宗気もまた水穀の気によって生じるものです。水穀が胃に入り、まだ腐熟される前に胃中の温暖によって蒸し升ったものは、両乳の間の膻中に積もって宗気となり、呼吸出入の気を助けます。営が昼夜五十回運行するのは、この宗気によるものです。ですから《邪客篇》に『五穀が胃に入り、宗気が胸中に積もり、喉嚨に出、呼吸をさせます』と述べられており、《五味篇》に『その大気と搏ってめぐらないものは、胸中に積もります。名付けて気海と呼びます。』と述べられているのです。【原注:大気とは宗気のことです】

たとえばご飯を炊く際に、水穀を鍋の中に入れて火にかけると、鍋の中が暖かくなるにつれて煙のように始めて升る湯気が宗気です。次に水穀が熟しそうになっているときに鍋の中が沸騰して蒸し升るところの湯気は、蓋の裏に薫じられて露として集まります。これが営です。ご飯が炊けて、水液が尽きて升る湯気の場合は、蓋の裏が乾燥しています。乾燥するのは陽だからです。これがすなわち衛です。ですから営は陰で衛は陽なのです。



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