附録 営衛三焦 第七節 相火蔵下焦




三焦心包はともに相火とします。相火の本はどこにあるのでしょうか。下焦に発して水中に蔵されています。これを天地に照らしてみると、相火は龍雷から出、龍は海水に蔵されて波濤をなし、雷は地陰に伏して発動します。人身においても相火は、下焦の水中から発するものです。これを命門の火と言います。すなわち相火の源、陽気の根、生の因るところです。

であれば、三焦と命門とで臓腑の表裏として配当されるべきなのに、心包と表裏に配当されるのはどうしてなのでしょうか。これは経絡の配当ですので心包と合するのです。命門は腎間の火であり経絡を立てるわけではありません。心包と三焦とは全身の造化の相火であり、それぞれ経絡を立てています。ですから臓腑経絡の配合と言う際には、三焦と心包とで表裏をなすのです。相火で言うときは、三焦は命門とも通じるものとなります。







その経絡の配合において、どうして心包を厥陰の経としてこれを臓とし、三焦を少陽の経としてこれを腑とするのでしょうか。

相火は天地を遊行して上下に充ちます、天の相火は無形から生じ、地の相火は有形から生じます。人身においては、心包の火は地の相火であり、三焦の火は天の相火です。どうしてかというと、心は君火の臓であり、心包の相火は心という有形の君から生じており、三焦の相火は命門という無形の陽気から生じています。このため心包の火は陰とし臓とし、三焦の火は陽とし腑として、表裏の配合をさせているわけです。

そもそも相火こそが天地人身万物を造化しているゆえんのものです。このため丹渓〔訳注:朱丹渓:金元の四大家の一人で滋陰降火を唱える:1281年~1358年〕は『天はこの火でなければ物を生じることができません。人もまたこの火でなければ生を保つこともできません。』と述べているわけです。誠に要言〔訳注:非常に重要な言葉〕としなければなりません。《素問》《霊枢》の諸篇すべてで三焦を専一のものとしているのは、相火が造化の枢機であり生死の根蒂だからです。



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