附 神明之弁




前言

右に弁じたように、営衛はすなわち血気です。《八正神明論》に『血気は人の神』であると述べられています。神は陰陽が委和している間〔訳注:陰陽が互いに根ざし調和が取れているところ〕に生じます。天地の間において、水火の外に陰陽はなく、陰陽の外に神はありません。人身においてもまた、血気の外に陰陽はなく、陰陽の外に神はありません。血気が委和している間に周流している一気こそがすなわち神です。ですから経に、血気をもって直接、神としているのです。

一切の有情のものは、流行する血気の中に神が根ざしています。このことを《内経》では『中に根ざすものを神気といいます』と述べています。一切の有情のものは、神が中にあり、機は外に発しています。機は事に応じて発動する神の効用です。神が内に根ざし、視聴言動という気機を発することができる君主なわけです。

この神については右の上焦心臓の弁の中で詳しく解釈していますけれども、まだ尽くしていないところがありますので、ここに付録として述べておきます。

附 神明之弁

《素問・天元紀大論》に『陰陽は天地の道、万物の綱紀、変化の父母、生殺の本始、神明の府です。』『陰陽の測られないものを神といいます。神用には方がありません。』『天にあっては玄とし、人にあっては道とし、地にあっては化とします。化は五味から生じ、道は智から生じ、玄は神から生じます』と述べられています。これらはすべて神の妙用を尽くしているものです。

太極が動じて陽を生じ、静にして陰を生じ、陰陽両儀に分かれて天地と成ります。天は陽で上を覆い、地は陰で下で載せます。陰陽が上下に分かれている間に五行が生じます。天は五行で風寒暑湿燥火の五化を施し、地は五行で五方を分かち生長化収蔵します。これらはすべて天地の道であり、その本は陰陽から出ています。ですから陰陽は天地の道とされているわけです。

万物の綱紀とは〔訳注:何かというと〕。網の小さな目が、綱紀によって総べられ繋がっているように、ありとあらゆる万物は、陰陽に総べられて繋がっているということです。

変化の父母とは〔訳注:何かというと〕。《易・繋辞上伝》に『変化は進退の象です』と述べられており、《本義》に『その変が窮まることはありません』と述べられています。物は化によって生じます。物が極まれば変ります。春夏に生化する〔訳注:生まれ化する〕ものは、秋冬には衰極して〔訳注:衰えきって〕終わります。これが変を造り化を造るものであり、陰陽こそがその父母と成ってなしているものです。

生殺の本始とは〔訳注:何かというと〕。始まりもまた本源であるという意味です。上の変化の父母とは気によって言っているものであり、ここの生殺の本始とは形によって言っているものです。万物は陽を得て生じ、陰で死にます。春生じ夏茂り秋枯れ冬蔵される、このすべての本源となるものが陰陽です。

神明の父母とは〔訳注:何かというと〕。神は陰陽が妙合した精華です。陰陽の変化は測ることができません。測ることができないとは、その気の属するところがわからないということを述べているものです。







春に生じて気は浮き、夏に長じて気は升り、秋に収まって気は降り、冬に蔵されて気は沈みます。太陽は東方から出て西方に入り、月は欠けて満ちにくく、春夏は温熱、秋冬は涼寒、草木の花は咲き実り、梅は香しく、菊は芳しく、桜の花は白色で、桃の花は赤色、鳥は(さえず)り、獣は吼え、人の手は舞い足は踏む。これらのことは何者がなさしめているのでしょうか。陰陽妙合の間を一気が周流するところの、神によるものなのです。この神はどこに集まっているのかというと、陰陽妙合の間にあるのです。

ですから陰陽のことを神明の府とするわけです。「府」は会集するところのことを言い、「神」は陰陽妙合している気を言い、「明」はその気の応用を言います。日月星の三光が著わす象の類が明です。神であれば明るく、明るいときには神があります。陰陽であっても神明がなければ、天地の道となり、万物の綱紀となり、変化の父母となり、生殺の本始と成ることは、できません。

神は、名をもって尋ねることはできず、気をもって見ることはできず、形をもって象ることはできません。陰とすれば陽に属し、陽とすれば陰に属して、その気その属その形が、まったくわかりません。ただ黙し、心で自ら理解するしかありませんし、理解できても言うことはできません。その神は理解できたとしても、その神のゆえんを理解することはできません。これが『陰陽の測られないものを神といいます』ということです。

神用には方がありませんとは〔訳注:何かというと〕。神が物に応ずる機用〔訳注:すばらしい働き〕のことを神用と言います。方がないということは、偏らず隔てなく広大にして通明であることを言います。万物において陰陽によらない物はなく、陰陽の及ぶところで神の用ではないものはありません。これがすなわち『神用には方がありません』という言葉の意味です。和光同塵という言葉もこのことを言っているものです。

仰いで天文を観れば深淵で窮まりなく、蒼々として玄なる中に自然の妙気を具えて万物の父となる。これがすなわち神の根です。ですから天にあっては玄とし、玄が神を生じるわけです。
道とは、衆妙の理すなわち神の用です。人はこれを持っています。智は人にあって衆妙の発するところです。道があるときにはなすことがあり、なすべきことは智から生じます。ですから『人にあっては道となし』『道は智を生じます』と述べられているのです。 物の生化は地から出て、曲を生じ、直を生じ、柔を生じ、堅を生じます。その化を測り知ることができないのは、神から発しているからです。生があるときは化し、化すときは物があり、物があれば味があります。ですから、『地にあっては化をなし、化は五味を生じ』ると述べられているわけです。







以上、すべての理はすべて神の妙用にあります。人はその神を心に蔵して全身の主人公としています。ですから諸々の病の中において、真心が邪を受けたものは死ぬとされているのです。非情の草木は神気が外に根ざし、有情の人類は神気が中に根ざしています。このため植物は内が腐ってもその皮理が傷んでいなければ枯れ落ちることがなく、有情の人類は外が傷られていても、その内が損なわれていなければ生命を失うことがありません。これもまたこの理によるものです。



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