第一章 三焦心包有名無形論
第三節 心主と三焦は有名無形




『ともに名前はありますが形はありません。』

以上の問答で一通り済んだようですけれども、深く考えてみるとまだ語り尽くされていないことがあります。そのため『ともに名前はありますが形はありません。』と述べているわけです。どうしてかというと、諸経の例を見ると、表裏の経には皆なその源に本づく形があるためです。手の太陰経は源に肺臓の形があり、手の陽明経は源に大腸の腑の形があるといった類です。ですから心主と三焦にもその源に臓腑の形があるだろうと探してみると―臓腑のことは四十二難に述べられていますので、四十二難に心主と三焦の形を探してみると―その形はありません。四十二難はもともと《霊枢・腸胃篇》の中から出た篇ですから《腸胃篇》を探してみても、心主と三焦の形についての記載はありません。ということは、心主と三焦とは他の臓腑のような形があるものではなく、ただ心主 三焦の名前だけがあるということになります。

さて、このように名前はあるけれども形はないと言い切ってしまうと、この意味づけが不完全なように思えます。けれども〔訳注:《難経・二十五難》の〕以上の文勢を考えると、五臓六腑で余っている一経を聞いて、答としてその余っている一経が明らかとなり、表裏のことも解決し、源が無形であるということも述べているわけですから、もう無形の意味について言及する必要はないとった文勢となっています。

また心主と三焦を他の臓腑のように形があると見るのは大きな間違いです。どうしてかというと、他の臓腑には形があるということを先に述べ、その後に心主と三焦には形があるかないかと、他の臓腑の形があるものと比較しているわけですから、形がないということは明らかです。

心主というものは、経脉に別れていると一経の流れですけれども、その源は心経に帰します。心臓はもともと心経の源に置かれていますから、心主の経の源にはもはや別に形が何もないというということは決まり切ったことです。



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