第二章 腎間動気論
第三節 独り内で絶す




『ですから、気は人の根本なのです。この根が絶するときはすなわち茎葉も枯れます。寸口の脉が平であるのに死ぬものがあるのは、生気が独り内で絶するからです。』とは。

先輩は『気は人の根本です。この気は腎間の動気を指しています。』と言われました。私が思うに、これは腎間の動気に限ってはいけないのではないでしょうか。人の生死は気に因ります。気があれば生き、気を失えば死にます。ですから気は人の根本です。その気の本は腎間の動気です。草木のようなものも、根が絶えれば茎葉は自然に枯槁し〔訳注:枯れてしまい〕ます。寸口の脉が平であるのに死ぬものがあるのは、人身の根本である腎間の生気が独り内に絶しているためです。

この「独」の字には実に深い意味があります。生気が内に絶すると、その人はすぐに死ぬはずです。どうして寸口が平で、まだ死なないのでしょうか。生気がすでに独り内で絶しているとはいっても、外に穀気【原注:中焦の胃の気】からの養いがまだ尽きていないため、しばらくの間は寸口を平に保っていますけれども遂には死絶します。寸口の脉は後天の胃の気が化したものです。腎間の動気は先天の生化の原です。先天がすでに尽きていても後天がまだ尽きてはいないために、寸口が平でしばらくの間生きているわけです。ですから越人はこの心を「独」「内」の二字に持たせているわけです。学ぶ者はこの二字を深く工夫して〔訳注:さまざまな角度から考え尽くして〕ください。

たとえば切り花は、生気が内に絶しているものです。水に入れれば枯れないのは、寸口の脉が平ということです。人身が死ぬときは、先天が尽きて後天がついに尽きる場合と、後天が尽きて先天が最後に尽きる場合があり同じではありません。医者はこれを考えて、死期の早い遅い測らなければなりません。



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