第二章 腎間動気論
第五節 腎間の動気は命門の火




また聞いて言いました。右腎命門の火というのは、腎間の動気のことなのでしょうか。

答えて言いました。右腎命門という言葉は越人が《難経》で始めて述べたものです。けれども右腎が命門の火であるとは述べていません。ただ二つある腎の、左を腎とし右を命門とするとだけ述べています。後人が誤って、左腎は水の精 右腎は命門の相火であると言ったのです。

腎間の動気は陽であり火です。これが人身の生命の根蒂なので、命門の火とも呼ぶべきものです。けれどもこの火が独り右腎にだけ含蔵されているとすべきではありません。両腎の精の中に含蔵されていて、常に精を温め化しているのです。

もし腎気が乱れ動ずるときには、この含蔵され精を温めているだけの気が、変化して火炎となります。たとえば焼酎が火となって燃えるようなものです。燃えれば火ですけれどもそれが消えればもとの焼酎です。人の腎精もまた変動するときは火ですけれども治ると本の精を温めるだけの気となります。どうして左腎が冷水で右腎が陽火であるということがあるでしょうか。後世、右腎を命門の火であると言ったのはたいへんな間違いです。

腎は北方の水蔵ではありますけれども、冷水ではありません。水中に一陽を含蔵しているため、その水精は自然に温暖です。この温暖を生気の原とし、腎間の動気とし、また命門の火とも言うわけです。その温暖が太過な場合は、陰虚火動の病となります。もしその温暖が不足する場合は、下元虚寒の症を病み、桂附〔訳注:肉桂や附子〕の剤でこれを主治することとなります。

あるいは《難経》に腎間の動気とあり、「間」という字にとらわれて両腎の間に挟まれている動気とするのは誤りです。経に間と述べられているのは中間ということではありません。左腎にも偏らず右腎にも偏らず、両腎両精の中に自然に含寓されている陽気であることを理解させるために、腎間という字を用いているのです。中間に挟まれているわけではありません。



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